星野仙一氏が死去 「沖縄へ球団増やしたい」 2003年には美ら島沖縄大使


この記事を書いた人 Avatar photo 島袋 貞治
楽天監督時代に投手陣へノックバットを振る星野仙一氏=2012年2月、久米島町の久米島野球場

 プロ野球中日のエースとして「燃える男」、中日、阪神、楽天の監督では「闘将」と呼ばれ、2013年に楽天を率いて球団創設9年目で初の日本一に導いた星野仙一(ほしの・せんいち)氏が4日午前5時25分に死去した。70歳。岡山県出身。密葬は6日、近親者で行った。後日、お別れの会を開く予定。楽天によると、16年7月に膵臓(すいぞう)がんであることが判明。昨年11月と12月に行われた野球殿堂入りを祝う会には出席したが、12月末に病状が悪化したという。星野氏は岡山・倉敷商高から明治大を経て、1969年にドラフト1位で中日に投手として入団。82年まで中日一筋でプレーした。気迫を前面に出す投球から「燃える男」がキャッチフレーズとなった。

 星野氏は中日、阪神、楽天の監督時代に沖縄キャンプでチームをつくった。2003年には美ら島沖縄大使に任命された。「沖縄へ球団を増やしたい」と沖縄への思いをスポーツ紙に語っていた星野氏。楽天時代に同氏の薫陶を受けた県出身選手らは「何と言っていいか分からない」と言葉を失った。同時に、“星野流”の闘争心を受け継ぐ覚悟を新たにしている。

 独立リーグの信濃グランセローズで投手コーチを務める有銘兼久氏(浦添商高―大仙―九州三菱自―近鉄)は、星野氏の下で2年間投手としてプレーした。昨年11月に東京都内で行われた星野氏の「野球殿堂入りを祝う会」に出席した際には共に談笑した。「まだまだこれからだったのに」と言葉を詰まらせる。

 「野球界は組織の垣根を越えて、一丸となって盛り上げなければならない」と独立リーグの普及へ務めた星野氏。信濃への有銘氏らコーチの派遣、楽天育成チームとの交流戦も実現させた。有銘氏は「(自分の)現役最後の監督であり、引退後は職員として迎えてくれた。本当に感謝している」とかみしめた。

 楽天の島井寛仁(西原高―ビッグ開発―熊本ゴールデンラークス)は訃報に驚きを隠せなかった。13年に入団。12年にドラフト指名を受け1年目のオープン戦前には「失敗を恐れずに前に進んでいけ」と言葉をかけられたことが忘れられない。14年シーズン後に戦力外となり、その後は育成選手としてプレーした。17年11月に、支配下選手に戻った。「あの言葉があったから(支配下選手に)上がれた」。秋季キャンプで、星野氏に直接報告した際には「来年期待しているからな」と激励された。来シーズンに向け「(星野)監督の闘争心を自分も受け継いでいかないといけない」と“星野流”を伝承する。