【島人の目】「こだわり」の功罪


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 2月15日の本紙上で「FDRモードコレクション2018」という記事を読んだ。県内の若手デザイナーが、沖縄の自然や文化などをテーマに服をデザインしグランプリを競うというもの。大賞を含む各賞の写真を僕は複雑な思いで眺めた。

 若い感性が捉えたテーマごとの沖縄の色彩や型、空気感はにぎやかで楽しい。だが、少し過剰過ぎる表現にも見えた。言いたいことがたくさんあって、その全てを作品に盛り込むことからくる混迷である。「盛りだくさん」の感情あるいは感性の露出は「モードショー」よりも「政治ショー」に近い印象でさえある。

 作品のテーマになっている、アジアの中のオキナワ、江戸上りの琉球楽師の衣装、ガジュマル、首里城、強い太陽等々は「現実や歴史」であると同時に沖縄の置かれた政治状況を象徴的に示す「イメージ」でもある。

 若者たちは盛んな感性で「政治的存在としての沖縄」をデザインに盛り込み困惑にも似た表現を生んだ。言葉を換えれば「過剰なこだわり」である。「ファッション」ではなく「モード」だから奇抜でも珍妙でも構わない。またこだわりのないアート作品はつまらない。同時に何事も「こだわり過ぎる」のは退屈だ。

 若者たちの作品は「沖縄へのこだわり」が楽しく可能性に満ちている。同時にこだわり過ぎが創造性の邪魔をし普遍化を妨げているとも感じた。

 こだわりつつ「こだわり」を突き抜けてほしい。それは沖縄にいるだけでは恐らく難しい。若者たちが、例えばイタリアやフランスなどにモードやファッションの勉強に出るのも良い、ともまた思った。
(仲宗根雅則 イタリア在、TVディレクター)