『東アジアの南向き玄関口 与那国島誌』 島に込められた思い


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『東アジアの南向き玄関口 与那国島誌』宮良作・宮良純一郎著 南山舎・2080円

 琉球列島の西の端、那覇に520キロ、台湾へは110キロの距離にある与那国島(ドゥナンチマ)。島は2千メートルの海底の裂け目・沖縄トラフの南端に位置し、多くの断層と平らな段丘(海成段丘)からなる。周囲28キロ足らずの島の周りには海に向かって崖が何か所にもそそり立っている。島を訪れた者は、他の島にはない独特の地勢と自然に魅了される。

 国連ユネスコ委員会から消滅危機言語に認定されたチマムヌイ(島語)で「天空(ティン)の家(ダ)の端(ハナタ)」を意味する景勝地ティンダハナタは島の創生の物語につながる。島の北岸「なんた浜」の語源をめぐる考察も楽しい。島の民謡『ドゥナンスンカニ』の一節「ミナンダアワムラシヌミヌナラヌ」(眼からこぼれる涙は泡盛の盃(さかずき)一杯に溢(あふ)れ砂浜に落ちる)のミナンダ(眼涙)の眼(ミ)が取れ、やがて濁点も取れて「なんた浜」になったという。

 14世紀から16世紀にかけての大交易時代以前から環シナ海を行き来するさまざまな地域からの船を受け入れた、なんた浜。それはまさに東アジアへと開かれた港だった。その一方で、『続日本紀』(714年)に登場する「南島から大和の京に運ばれたクバ」は与那国産だと著者は見る。

 1637年に始まり266年間続いた先島諸島の人頭税。15歳から50歳までの男女に割り当てられた八公二民の過酷な税制が行われる中で、バラザン(藁(わら)算)という藁製の計算機が考案され、カイダディという絵文字が創り出された(表紙カバー)。

 そして20世紀、戦争が島を襲った。多くの人々がマラリアで命を落とし、戦死した大舛松市さんは軍神に祭り上げられた。

 その島に2016年3月、自衛隊がやってきた。

 本書は島に生まれ、台湾から東京へ移り住み、米軍統治下で帰郷のかなわなかった男性と、八重山諸島で長く数学教師を務めたその従弟(いとこ)の2人が、愛する島について誌(しる)したものである。そしてチマムヌイで日本国憲法を、という第5章の試みには、人類にとって普遍的な日本国憲法の理想を伝えようとする著者の思いが込められている。

 (川口重雄・丸山眞男手帖の会)

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 みやら・さく 1927年与那国島生まれ。中央大学卒業。県議を8年務めた。

 みやら・じゅんいちろう 1949年与那国島生まれ。岡山理科大卒業。元数学教諭。八重山数学教育研究会会長などを務める。