ハンセン病理由 無人島に遺棄 「ごみ扱い」餓死寸前


この記事を書いた人 Avatar photo 桑原 晶子
現在も園内に残る患者が掘った壕(愛楽園自治会提供)

 1944年、西太平洋の赤道付近に位置する無人島。日本軍の憲兵が銃を向け、男性(当時24歳)に下船を命じた。「らいがうつるから、人がいる島に近付くな。お前はここで死ぬ。そのことが国のためだ」。従う以外に選択肢はない。男性は国に「破棄」されたのだった。

 国はハンセン病を「国辱病」と宣伝し、「浄化」に取り組んできた。1907年に「ライ予防ニ関スル件」を制定。31年には「癩(らい)予防法」と改めて、患者を死ぬまで強制隔離する政策を推進した。
 男性は1920年、沖縄本島で生まれた。18歳で出稼ぎのため、南洋諸島の一つ、クサイ島に単身渡った。「沖縄に残した父母を楽にさせたい」との思いを抱きながら土地を開墾し、仲間20人ほどと懸命に働いた。

 41年12月に太平洋戦争が開戦すると、船にたけていた男性は現地で徴用され、見張り役として働いた。44年の正月、朝起きると腕に赤い斑点が出ていた。病院で「らい病」と診断された後、憲兵に連行された。行き着いた先は無人島だった。

 「船から放り出され、それっきりだ。誰も来なかった」。込み上げる怒りをぶつける相手もいない。水を探し回り、魚を捕る日々が続いた。それだけでなく虫や草花、何でも食べた。それでも手足はやせ細り、腹だけが出た。

 戦中、沖縄本島でも日本軍は感染を恐れ、「患者狩り」を実行した。衛生兵が集落を回り、患者を愛楽園へと次々に収容した。国は患者が戦火から逃げることを許さず、園で死ぬことを強制した。

 44年2月~46年9月まで園長を務めた早田皓医師は、患者に壕堀りを命じた。壕造りに従事する患者の中には、土中に堆積した貝殻で手足にけがする人もいた。病の影響で末梢神経が麻痺(まひ)していたため、受傷に気づかず悪化し、指や手足を切断するなどして失った。慢性的な栄養失調状態も続き、44年10月から46年末まで、愛楽園の入所者315人が死亡した。

 一方、無人島に捨てられた男性は数カ月過ごした後、上陸した米軍に保護された。米兵の尋問にハンセン病の英名「レプラ」と一言告げた。「また一人取り残されるのか」。男性は顔を伏せたままだったが、米兵が返した言葉は「Don,t worry(心配するな)」だった。

 島から沖縄に生還した男性を待っていたのは愛楽園への「隔離」だった。「入所から2週間ほどして、両親が訪れた。私を探してくれてありがたいと思う半面、らいにかかって申し訳ない思いだった」。許しを乞う男性にしがみつき、母は泣いた。

 愛楽園で暮らして70年余が過ぎた。無人島で餓死寸前まで追い込まれた恐怖に、男性は今も体を震わせる。「人でも動物でもあらん。まるでごみ扱い。私はごみのように捨てられたんだよ」 (佐野真慈)