苦楽共にした仲間、顔背ける ハンセン病退所者 病歴隠す悔しさに涙 19~21日、ハンセン病市民学会


この記事を書いた人 大森 茂夫
岡山県の新良田教室に通っていた19歳ごろの金城幸子さん。花柄のシャツがお気に入りだった(金城幸子さん提供)

 昼下がり、うるま市内のスーパーマーケット。ハンセン病元患者の金城幸子さん(77)は店内で、懐かしい顔を見かけた。会釈をしようとした矢先、相手は顔を背け、指を自らの口に当てた。「話しかけるな」のサインだった。相手も元患者で沖縄県名護市済井出のハンセン病療養施設「愛楽園」で苦楽を共にした。偏見と差別の恐怖から生い立ちを偽って、生きざるを得ない。金城さんは悔しさで涙がこぼれた。

 県内の療養所は愛楽園のほか宮古南静園(宮古島市)がある。厚労省が把握する県内退所者は473人(2017年7月現在)。関係者によると、退所者の多くは病歴の発覚を恐れ、過去とのつながりを絶つ人が多い。このうちハンセン病回復者だと公表しているのは5人程度だという。「らい予防法」廃止から22年、熊本地裁の隔離政策への違憲判決から17年が経過した今も、退所者の苦しみは続く。

 本島南部に暮らす元患者の70代女性は10代で愛楽園に強制隔離された。病状の回復後は園から脱走を繰り返し、なるべく知り合いのいない場所を探して生活してきた。出身地や職歴を偽り、過去の話が出るたびにはぐらかした。「数え切れないほどのうそをついてきた」。家族にも病歴を伏せたままだ。

 ハンセン病は簡単に伝染せず、遺伝もしない。薬で完治し、特別な病ではない。そう大きな声で言いたい。だが、これまで自らに向けられた差別のまなざしが、家族に注がれることを恐れ踏み出せない。「黙ることで守れるなら墓場まで持って行く。うそは得意だから」

 9歳で強制隔離された金城さんも「病歴を隠さないといけない」と、幾度も社会から思い知らされた。1957年、愛楽園内の澄井中学を卒業した。ハンセン病療養者を対象にした全国で唯一の高校、岡山県立邑久高等学校定時制課程の新良田教室に進学を決めた。岡山行きの列車に乗り込んだ時、将来への希望は打ち砕かれた。最後尾の貨物車両に乗せられた。「強烈伝染病につき注意」と書かれた横断幕が車体に張られていた。

 沖縄に戻ってから十数年後。経営していた飲食店に男性数人が訪れた。金城さんは一目で、愛楽園入所者だと気付いた。男性たちは後遺症で手足を失っていた。従業員は近づこうとせず、「気持ち悪いですね」と金城さんに言った。

 「何てことを言うんだ」。怒りたかった。だが、金城さん自身も当時、病歴をまだ隠していた。口から出た言葉は「そうだね」という相づち。ハンセン病と関係していると悟られることが怖かった。店を出た男性たちを追いかけ、二度と来ないでくれと懇願した。黙ってうなずく男性の悲しげな目が金城さんの心を突き刺した。

 (佐野真慈)