<人生泣き笑い サクラメントの県出身女性>4 アメリカ 豊子・ヤングリングさん(旧石川市出身旧姓・端ケ山)


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苦労の連続にも笑顔

 

 豊子・ヤングリングさん

 旧石川市出身の豊子・ヤングリングさん(78)=旧姓・端ケ山=は、米サンフランシスコの締め太鼓グループの一員として、イベントに出演し、沖縄伝統芸能アピールの一役を担っている。グループ最年長の豊子さんは、往復3時間かけて練習を受けに行くなど全力で取り組む。

 「覚えるのに苦労し、なかなか舞台に立たせてもらえなかったが、先生からステージでの演舞が許された時はうれしくて泣いてしまった」と話す。

 子どもたちはすでに独立し、孫2人にも恵まれ悠々自適に見える豊子さんだが、その半生は苦労の連続だった。

 貧しい農家に生まれた豊子さん。戦後、焼け野原になった古里で、父親に頼まれ、戦死した兄の代わりに中学生の時から畑仕事をしていた。中学卒業後は、軍服に名前などの刺しゅうを入れる店で働いた。19歳の時に、店に来ていた日系人の父親を持つハワイ出身の米兵と結婚した。「日本人の血が流れているし、貧しさから脱し幸せになれると信じ、父親の反対を押し切って結婚した」と語る。

 結婚後、ハワイ、サクラメント、沖縄で生活した。結婚8年目に念願の長女、その2年後に長男を授かった。サクラメントに家を買い、夢に見た一家4人の平穏無事な毎日を送り、幸せを感じていた。

 そんな折、突然夫から離婚を切り出された。青天のへきれきだった。少しばかりのまとまったお金をもらうが、不幸のどん底に突き落とされた。

 月々の養育費だけでは生活費が足りず、豊子さんは職探しを始めた。最初に就いた仕事は、住宅の清掃だった。ペンキ塗りや大工仕事など、身を粉にして働いた。「学歴がなくいい仕事に就けず、金銭的に苦労した」と振り返った。

 仕事に育児、家事に疲労困憊(こんぱい)の日々。そんなときに、息抜きに友人に誘われて行ったカントリーミュージックのライブで夫となるドナルドさんと運命的な出会いを果たす。ドナルドさんの真面目な人柄に引かれていった豊子さんだが、14歳の年の差を気にし、最初は付き合いを断ったという。

 だが、ドナルドさんはあきらめなかった。後日、母親同伴で現れ、母が結婚に賛成していると伝えた。義父には反対されたが、義母と義理の妹が見守る中、式を挙げた。「夫は神様からの贈り物だった。子供たちの勉強も見てくれ、精神的にも経済的にも助けられた。優しい義母にも支えてもらった」と話す。

 退職した今、夫の趣味の蒸気機関車を走らせる同好会にも一緒に参加する。県人会では、夫とともにイベントで音響係として協力する。豊子さんは、人生を振り返り、最後にこう話す。「どんなに苦労しても人前では笑顔を忘れずにいた」
 (鈴木多美子通信員)