<人生泣き笑い サクラメントの県出身女性>7 アメリカ 澄子・キングさん(那覇市出身旧姓・安里)


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技術生かし 道を開く

 

得意分野を生かして、米国での人生を切り開いてきた澄子・キングさん

 1950年代、県出身女性のほとんどが国際結婚で渡米したが、那覇市出身の澄子・キングさん(77)=旧姓・安里=は違った。自身の得意分野を生かし、米国での人生を切り開いてきた。

 澄子さんは、72年の日本復帰の前年に姉がいる米国へ渡った。30歳だった。渡米前は米軍基地で働いていた。タイピストとして那覇軍港で採用され、3年後、米陸軍の事務所に移り、そこで10年間働いたが、基地縮小で希望退職者を募っていたため、退職することを決めた。渡米後、義兄が永住権を申請し取得した。仲介料を支払って就いた仕事は、3カ月で解雇された。しかし、澄子さんはめげることもなく、午前中は短大に通い、週20時間はレストランで働いた。

 短大在学中にタイピストの採用試験を受け、合格した。配属された職場は米カリフォルニア州の税務署、データ入力が仕事となった。翌日からトレーニングが始まった。午前は、コンピューターの使い方や入力方法などの講習を受け、午後は理解度を測るテストがあった。澄子さんは「テストは、毎回75点以上取らなければ不合格となり、即解雇になる。20代に負けないよう6カ月の厳しい訓練を乗り越えた」と振り返った。

 だが、訓練終了後も、成績が10番以内でなければ本採用にはならないことから、さらなる上を目指してキーデータオペレーターの国家試験を受験した。しかし、試験の結果が出る前に、澄子さんは米国での職探しに見切りを付け帰沖した。

 復帰後の沖縄は、様変わりしていた。仕事を探したが、希望する仕事は見つからなかった。そんな中、帰国前に受けた国家試験の合格通知と州税務署からの求人応募書が姉から送られてきた。福利厚生の充実など将来のことを考えると米国で生きることがベストだと考えた澄子さんは再度、渡米した。サクラメントに戻り、面接に臨み採用された。

 澄子さんは「毎年仕事の内容が変わるためマニュアルを読み、それを理解した上で個々で仕事を進めないといけない。入力のスピードと正確さが標準数値に達していないと、解雇を勧告される。皆がライバルで競争の中でがむしゃらに働き、指が痛くなった」と語る。それでも30年間、忍耐強く働き、63歳で退職した。「仕事はきつかったが、自分の得意分野を全うできたことはよかった」と話した。
 (鈴木多美子通信員)
 (おわり)