ブラジルと日本 懸け橋交流に参加して ハワイで親戚と初対面


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日系社会と「沖縄」考えたい

城間茂さん(前列左端)らハワイの親戚との夕食会に参加する筆者(同左から2人目)=6月8日、米ハワイ州

 6月4~17日、ブラジルの邦字新聞「サンパウロ新聞社」(鈴木雅夫社長)と海外日系人協会(田中克之理事長)が主催する「ブラジルと日本の懸け橋育成交流プロジェクト」に参加し、ハワイや日本を訪問した。プロジェクトは、今年がブラジル移民110周年を迎えることに加え、明治元年に初めてハワイへ日本人移住者が送り出されてから150年目になることを記念して企画された。

 最初の到着地であるハワイでは、出発の数週間前に初めて連絡した親戚が出迎えに来てくれた。ハワイ訪問を報告した際に、伯母から初めて親戚のことを聞いた。知人のおかげで電子メールを教えてもらい、伯母が「茂おじさん」と呼ぶ城間茂さん(94)=旧大里村大城2世=と、テレビ電話で話ができたのが出発の1週間前だった。

 空港で迎えてくれたのは、茂さんの姉の3人の子どもたちだった。ハワイの首飾り「レイ」で歓迎してくれ、感動した。

 到着翌日の6日は、第59回海外日系人大会(海外日系人協会主催)に参加した。7日は明治元年ハワイ移住150年の祝賀会に参加した。2日間、多くの人と話をする機会に恵まれ、かたかしらを結っていたこともありハワイの県系人ともつながることができた。

 8日は、茂さんの息子の勉さん、熱田オトメさんの長男ジョージ・一郎さんらと、熱田家次男キヨマサさんの自宅を訪れた。自宅敷地内にある低い石垣は沖縄を思わせた。初めて会う親戚もいて、茂さんも車椅子で待ち受けていた。

 茂さんはハワイ生まれの県系人2世で、祖父大術と付き合いがあったという。長い間、手を握った。茂さんは、戦後は字史のまとめ役として活動していた。戦後直後と現在の公民館の写真や門中の古い時代の系図などをまとめた。

 10日からは日本を訪問。講演を聴講したり、企業やJICA移民資料館などを視察したりした。自由時間には、外務省の外交史料館が保管する琉米修好条約の原本を閲覧した。一部複写しブラジルに持ち帰りたかったが時間の都合で間に合わなかった。

 交流プロジェクトを企画し、引率したサンパウロ新聞社の鈴木社長は「これからは1世ではなく、ブラジル生まれの次世代の時代だ。若い人に日本人との付き合い方を教える」と語った。

 プロジェクトのスポンサーである竹内運輸工業の竹内政司社長は、日系社会の将来を危惧し、スポンサーになった。5年前は、ブラジルの1世の帰郷を支援した。ブラジルで記者として働いていたときに、1世の苦労話を見聞きしたことが、現在会社を経営する中で心の支えとなったことに対する恩返しだったという。鈴木さんから聞こえてきたことは、「日系人であることに誇りを持つ」ということであった。

 私は日本人として育てられたこともあり、昔は日本人というルーツに非常に誇りをもっていた。しかし、日本・沖縄の歴史や現在の状況を知るにつれ、怒りと悲しみに浸り、日系人というアイデンティティーに疑問を抱いている。しかし、日本人として教育を受けた先輩たちの気持ちを思うと、一方的に否定することができないし、私自身、うちなーぐちも流ちょうに話せないし、日系社会の一員として育った。迷った末に、たどり着いた一つの答えは私が日本・沖縄の歴史、移民史について発信していくことだった。日系社会が日本と沖縄、国内と海外での沖縄人と日本人の間にある歴史を認識し合い、沖縄の違いを受け入れ、現在の沖縄の置かれた現状も一緒に考え、共に日本国にも働きかけてもらいたいとの思いがある。世界の日系人のゆいまーる精神が実ることを信じ、それを誇りにしたいと私は思っている。

(城間セルソ明秀 ブラジル通信員)