【伊江】伊江港で米軍弾薬処理船(LCT)に積んでいた不発弾が爆発し、村民ら102人が死亡、76人が負傷した事故から、6日で70年を迎えた。同日午後3時半から、伊江港内慰霊碑前で慰霊祭が執り行われる。
爆発「また戦争か」 島袋清徳さん
当時10歳だった島袋清徳さん(80)は、渡久地港から連絡船で伊江に戻った直後、爆発の現場に遭遇した。事故の混乱で、近くにいたはずの父・松助さん=当時46歳=の行方が分からなくなった。「戦争が終わったばかりなのに『また戦争が起きたのか』と思った。事故で多くの人が亡くなり、父も巻きこまれたと思った」と振り返る。
本部にイモを売りに行った帰りだった。LCTから100メートルほど離れた民家にいた。ひしゃくで水を飲んでいる最中、不発弾が爆発し、耳の張り裂けるような音がした。反射的に家に向かって逃げ出した。道中では遺体も目にした。「気にかける余裕もなく、側を駆け抜けても怖いという意識もなかった」
家に逃げ帰って、父がいないことに気付いた。現場に戻って探していると、「生きていたのか」と父に肩をたたかれた。「驚いたのはおぼろげに覚えている」と言う。
事故翌日、改めて現場を見に行った。青年団や消防団の人たちが遺体を収容していた。足の吹き飛ばされた遺体もあった。浜は真っ黒になっていた。「海水浴によく行ったきれいな砂浜。何のためにこうなったのか」とむなしさばかりが胸に広がった。
村民は戦争が終わってもなお、残された弾薬で命を落とした。島袋さんは「沖縄戦で被害を受けた伊江島は、復興しようという矢先に爆発事故に見舞われた。この事故を決して忘れないよう、次世代に伝えていかなければならない」と力を込めた。
「自船が事故」錯覚 玉元昭仁さん
玉元昭仁さん(91)は事故当時21歳。連絡船に乗船中、事故に遭遇した。爆発した不発弾を積んだLCTから連絡船の距離はわずか10メートルほど。船から逃げ出して、難を逃れた。「(衝撃の大きさに)自分の船に積んでいた予備燃料が爆発したのかと思った」。当時の記憶は鮮明によみがえる。
玉元さんは16歳だった1943年に旧海軍に入隊。航空機の整備士として台湾などを転々とした後、1947年冬に伊江島に戻った。島に戻ってからは、連絡船の運航の仕事に従事した。事故当日も船の機関長として、エンジンを動かした。
爆発時、玉元さんは機関室にいた。渡久地港から運んだ約30人の乗客を降ろし、沖合に船を移動させていた。爆発の衝撃で腰を打ち、聴力や左目の視力も、一時的に奪われた。ほかの船員たちは、海に投げ出された。
玉元さんは船から海に飛び込み、2~30メートル離れた桟橋まで必死で泳いだ。陸に上がり、体中に痛みを感じながら、足を引きずって現場を離れた。港周囲のかやぶき屋根の家からは火が出ていた。「とにかく夢中で逃げた。周りの状況を確認する余裕もなかった」
後になって、連絡船の船長や一緒に伊江島に帰郷した軍隊時代の仲間も亡くなっていたことが分かった。「米軍が危険物を不用意に扱ったために、事故が起きた。戦争を生き抜いて帰ってきたのに、事故で亡くなった仲間を思うと、ふびんでならない」と悔しさをにじませた。