【読谷】1945年8月9日昼ごろ、読谷村内の飛行場に照明弾を発射しながら近づく米軍機があった。滑走路に緊急着陸し、所定の位置から大きく離れた地点でかろうじて停止したのはB29爆撃機「ボックスカー」。数時間前、長崎に原子爆弾「ファットマン」を投下して、一瞬にして7万ともいわれる市民の命を奪った機体の飛来だった。
沖縄戦後、読谷村には読谷飛行場とボーローポイント飛行場があり、残されている資料からはボックスカーがどこの飛行場に降りたのかは定かではない。読谷村史編集室の豊田純志さん(57)は「読谷飛行場が一番考えられる」と推測する。ボーロー飛行場が6月時点で1割弱しか完成してなかった一方で、読谷飛行場はすでに滑走路が整備されていたからだ。乗組員の証言に「ボーロー」ではなく、「ヨミタン」しか出てないことも理由に挙げる。
8月9日未明、原爆を積んだボックスカーはテニアンを離陸した。行き先は兵器庫があった福岡県小倉市。しかし、小倉上空は視界が悪く、1時間ほど旋回しても照準をあわすことができない。目標を工業都市で軍事拠点としても重要だった長崎に変更し、原爆を投下した。テニアンに戻るはずだったが、一部の燃料ポンプが故障で使えず、小倉上空で燃料を失っていたボックスカーは機首を沖縄へ向けた。
読谷に着いたときには、燃料はほとんど残っていなかった。あまりの危機的状況に、乗組員のフレッド・オリビーは、着陸後も乗組員は「しばらくはだれも言葉を発することはできなかった」と証言している。
当時、読谷の住民は収容所の中にいたことから、ボックスカー飛来の目撃証言はない。長崎に原爆が投下されて73年が過ぎた。長崎に惨劇をもたらした後、沖縄に飛来したボックスカー。豊田さんは「5月には沖縄は本土攻撃の拠点となっていた。基地の島として利用される、その始まりではないか」と話した。【琉球新報電子版】