『水都』 詩法へのこだわり再発見


社会
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『水都』網谷厚子著 思潮社・2484円

 エッセイ集『陽を浴びて歩く』に続き、詩集『水都』を受け取る。前者には沖縄の詩人たちの活躍が辿(たど)られる。

 赴任して10年になる沖縄。いま、沖縄に移り住むとは。詩の書き手にとって、エッセイ集での言い方に就けば〈第二の出発〉と言えるほどの人生の劃期(かっき)、そして発見。それは詩人のくぐり抜ける〈日本語〉にとっても新しい体験となるだろう。その網谷厚子が問う新しい詩集『水都』を目の前にする。

 読みながら、私もまた新しい〈発見〉をいくつかする。第一に、赴任先が辺野古であることはけっして偶然でない。辺野古の神が〈内地〉のひとりの詩人(日本文学研究者でもある)を呼びつけたのだ。こう私が言う言い方は著者を怒らせるかもしれない。

 第二に、その理由である。緊張感に溢(あふ)れる固有の歴史、文化の奥に、繰り返される〈戦(いくさ)〉によって少しも汚されることのない自然や時間、恵み。詩集『瑠璃行』『魂魄(まぶい)風(かじ)』そしてこのたびの『水都』を産んだ理由でもある。

 第三に、網谷のこれまでの長い詩人としての道程でこだわり続けてきた詩法がある。文末とも、句末とも言える箇所に、改行せず〈一字空き〉をほどこしてゆく書き方は、先達(せんだつ)の星野徹から学んだ一面もあるのだろうが、今回、改めて〈日本語〉の構造的把握にとって必要な措置だと私は気づいた。詩がそれを可視化するのだ。

 物語などの古文にもかかわる。連用形、連体形、終止形、名詞止め、格助辞、接続助辞のかずかずを〈一字空き〉の直前にみごとに配置し、朗読するとわかるのだが、その膠着(こうちゃく)語性を丁寧に履歴させる書き方は、〈日本語〉を構造化するためになされる。ちょっと難しい議論でも、今後の網谷厚子論のためにだいじなことなので、一言。〈日本語〉の原型に沖縄語がある。

 「とこなつ」「びぶりお譚」など、名作と言える諸編を擁して『水都』は成った。

 (藤井貞和・詩人、日本文学研究者)

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 あみたに・あつこ 1954年富山県生まれ。名護市在住。「万河・Banga」主宰。「白亜紀」同人。詩集「瑠璃行」(思潮社・2011年)で第35回山之口貘賞。「魂魄風」(思潮社・2015年)で第49回小熊秀雄賞。

 

水都
水都

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網谷 厚子
思潮社 (2018-08-10)