【島人の目】盆と十字架


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 今月2日はイタリアの盆だった。俗に「死者の日」とも呼ばれる万霊節である。

 カトリックの教えでは、人間は死後、煉獄(れんごく)の火で責められて罪を浄化され、天国に昇る。その際に親類縁者が教会のミサなどで祈りをささげれば、煉獄の責め苦の期間が短くなる、とされる。それは仏教のいわゆる中陰(ちゅういん)で、死者が良い世界に転生できるように生者が祈りをささげる行事、つまり法要に似ている。

 万霊節には死者の魂が地上に戻り、家を訪ねるという考えがあり、帰ってくる死者のために夜通し明かりをともし、まきをたく風習もある。また死者のためにテーブルを一人分空けて、そこに無人の椅子を置く家庭もある。死者と生者が共に食べるために食事も準備する。そうした習慣から見ても、カトリックの「死者の日」は、日本の盆によく似ていると感じる。人々は各家庭で死者をもてなすばかりではなく、教会に集まっておごそかに祈り、墓地に足を運んで亡き人をしのぶ。

 僕もその日、ことし6月に亡くなったイタリア人の義母の墓参りをした。義母の新盆、という意識があった。十字架に守られた墓標の前に花を供え、日本風に合掌したが、少しも違和感はなかった。

 それは恐らく僕が自称「仏教系の無心論者」だからである。僕はあらゆる宗教の儀式やしきたりや法則よりも、ひたすら「心が重要」と考える者だ。心には仏教もキリスト教もイスラム教もアニミズムも神道も何もない。すなわち心は宗派を超えた普遍的な真理であり、各宗教がそれぞれの施設や教義や準則などで縛ることのできないものだ。

 カトリックの宗徒は、あるいは彼らと同門の義母が僕を介して盆の徳で洗われることを認めないかもしれない。いや恐らく認めないだろう。それは一神教の信者の窮屈な思い込み、というふうに見えなくもない。
 (仲宗根雅則 イタリア在、TVディレクター)