県民、一貫して反対 普天間返還・移設問題 22年間、形変え迷走


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 1996年4月、当時の橋本龍太郎首相とモンデール駐日米大使による米軍普天間飛行場の返還合意から22年が経過するが、返還のめどは付いていない。政府は普天間返還の条件として名護市辺野古に代替施設を建設する「県内移設」に固執し、沖縄県民の一貫した反対の中で移設計画は幾度も形を変え迷走してきた。

 95年の少女乱暴事件を契機に県民の反基地感情はピークに達し、日米両政府は市街地のど真ん中に位置する普天間飛行場の返還を負担軽減の目玉として打ち出した。だが、県内移設が返還条件となったことに県民世論は反発し、当時の大田昌秀知事は本島東海岸への海上ヘリポート案を拒否した。98年の知事選で大田氏を破った稲嶺恵一知事は政府との関係改善を進める中で、15年の使用期限を付けた軍民共用空港の条件で県内移設を容認。辺野古沖合2・2キロに2千メートルの滑走路を備えた施設の建設が決まった。

 だが、この海上基地も市民の抗議行動などに遭って行き詰まったため政府は断念し、米軍キャンプ・シュワブ沿岸部を埋め立てる計画に見直す。稲嶺氏の受け入れ条件を尊重するとしていた99年の閣議決定を廃止し、2006年の在日米軍再編に関する閣議決定でV字滑走路の沿岸案が正式な政府の方針となった。沖合案や使用期限の条件がほごにされたことにより、稲嶺氏は辺野古移設に反対する立場に転じた。

 09年の民主党への政権交代に伴い鳩山由紀夫首相(当時)が「最低でも県外」を掲げたことでも、普天間飛行場の県外・国外移設を求める県内世論が保革を超え一気に高まった。06年の知事選で「V字案は認めない」とし初当選した仲井真弘多氏は、10年知事選で「県外移設」を掲げ再選。だが仲井真氏は安倍政権下の13年末に「(公有水面埋立法の)基準に適合していると判断した」と沖縄防衛局の埋め立て願書を承認、公約から一転して辺野古移設を容認した。

 翌14年の知事選で、辺野古新基地建設阻止を公約にした翁長雄志氏が仲井真氏らを破って初当選。国は仲井真県政時の公有水面埋め立て承認を根拠に建設工事を進めたが、翁長県政は埋め立て承認の取り消し、撤回という知事権限の行使で埋め立てに対抗した。翁長氏の死去に伴う今年9月の県知事選では新基地建設阻止を継承する玉城デニー氏が過去最多得票で当選し、県内移設に反対の民意が改めて示された。