米国防省は1978年、「核兵器の保管と配備の歴史」と題する機密文書を作成した。90年代に入り開示されたこの文書には米国が51年から77年までの間、核兵器を配備した国や地域のリストが添付されていた。アルファベット順に並ぶリストの地名28カ所のうち18カ所は黒塗りだったが、99年10月、米核監視団体の研究者ロバート・ノリスらにより、沖縄を含む16カ所が特定される。
判明していないのは「C」と「I」で始まる2地点だった。ほどなくして、小笠原諸島でフィールドワークを続けていた首都大学東京の社会言語学者、ダニエル・ロングがノリスに送った1通のメールが、解明の糸口となる。「C」は小笠原諸島の「父島」ではないか―。
小笠原諸島は戦後、沖縄と同様に米統治下に置かれ、68年に日本に返還された。ロングは父島の住民から、米統治時代に島に核兵器があったのではないかという証言を得ていた。
「父島の山間に立ち入り禁止の洞窟があり、常に武装したマリン(海兵隊員)が立っていた」「米軍から年に一度、夜に物を運ぶからカーテンを閉めろと言われた」などの話があったという。
ロングからメールを受け取ったノリスらは調査の結果、「C」が父島、「I」が硫黄島であることを確信するに至る。リストには、沖縄に72年まで18種類の核兵器が配備されていたことも記されていた。
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戦後、米統治下で核兵器が配備された沖縄と小笠原。それぞれの役割を、名古屋大学特任助教の真崎翔(歴史学)は「盾と矛」に例える。
沖縄や日本本土に置かれた米軍基地は、その存在を周辺に顕示することで抑止力を保ったが、核戦争が起こった場合に先制攻撃の対象とされるリスクがあった。反撃が十分期待できない点で、こうした基地の役割はいわば「盾」だった。
一方、小笠原の基地は敵にその存在を知らせない秘密基地とすることに意味があった。
相手の先制核攻撃に対する「矛」となる報復能力を小笠原に担わせることで「米国本土からなるべく遠いところで攻撃を食い止める。小笠原には反撃拠点としての位置付けがあった」(真崎)。
小笠原諸島は68年、沖縄より4年早く日本に返還された。真崎は、沖縄に比べて注目されることのない小笠原返還交渉における核「密約」を調べ、それが沖縄返還時の「密約」の伏線となり、大きな影を落としたことを浮き彫りにした。
返還後も小笠原に核貯蔵拠点を確保したい米軍部の要求を満たすため、日本側は「密約」により切り抜ける道を模索する。
米国で開示された当時の英文案によれば、小笠原に核兵器を貯蔵する必要性が生じた場合に関するやりとりで、日本側はそれが事前協議の対象になるとして「そのような協議に入る」(当時の三木武夫外相)とした。真崎は「非核三原則を掲げる政府見解と明らかに矛盾している」と語る。
政治的な問題を「密約」で解決する方法は、その後の沖縄返還交渉に引き継がれた。日米双方にとって、小笠原の「前例」ができたことは「沖縄の核『密約』や『核抜き返還』を議論するハードルを下げただろう」と真崎は説明する。
60年代後半はベトナム戦争が泥沼化し、国内では反米・反基地運動が熱を帯びた。
真崎は同時期の小笠原の返還交渉が「まさに米国との同盟関係を見直す絶好の機会だった」と強調する。だがその実態は、占領中の米国の既得権を引き続き認めさせる内容となった。真崎は著書で、小笠原返還交渉が「実際は米国主導の安全保障体制を固定化させるものであった」と指摘した。
当時首相として交渉に臨んだ佐藤栄作は、日米首脳会談で小笠原返還が合意された67年11月15日の日記に、こう心境を書き込んだ。「出来栄は後世史家の批評にまつのみ」(「佐藤栄作日記」)。
あれから半世紀。「後世史家」として真崎は言う。
「日本は小笠原の返還交渉で、毅然とした態度で不平等な日米関係を正すことのできた千載一遇のチャンスを逃した。米国は沖縄返還交渉でさらなる妥協を日本に強いた。非常に残念で、取り返しのつかないことが起きてしまった」
(文中敬称略)
(當山幸都)
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戦後、沖縄と共に米統治下にあった小笠原諸島の施政権が日本に返還されて今年で50年。日本と米国のはざまで歩んだ数奇な歴史をたどる。