「『シカト』といういじめ方が残酷なのは、そこにいる人間を存在しない人間のように扱うことで、『おまえはもう死んでいる』と無言のうちに告知しているからです。『殺してやる』というのなら、まだこっちは生きているわけですから、対処のしようもありますけれど、『死んでいる』と言われてしまうと、もう手も足も出ません」(『先生はえらい』内田樹著、筑摩書房、2005年、115ページ)。
岩屋毅防衛大臣のことだ。
大臣の発言は、もはや、暴力だ。沖縄人が傷つくのも当然だ。傷つくのは、人間として極めて正常な反応だ。暴力に傷つかない人間はいないからだ。
岩屋大臣は、県民投票の結果をあらかじめ無視すると決めていた。沖縄人の民主主義に対して、「おまえはもう死んでいる」とあらかじめ死亡宣告していたのだ。
沖縄人の民主主義の存在を全否定する今回の発言は、前回の「沖縄には沖縄の、国には国の民主主義がある」という発言と整合している。両者をまとめて翻訳すると、「国の民主主義は、沖縄の民主主義を含まない。なぜなら、存在しないからだ」と言っているのだ。
沖縄人の民主主義を全否定できるのは、あらかじめ沖縄人の存在を否定しているからだ。ただし、岩屋防衛大臣は、安倍晋三総理大臣をはじめとする政府の「沖縄人は国民ではない」という非公式見解を代弁したにすぎない。あるいは、無意識的見解といってもよいだろう。
その証拠は政府の行為にある。3度の知事選で辺野古埋め立てに反対しても、埋め立てを強行しているのがそれだ。国民としての存在を認めていれば、絶対にできない行為だ。実際、他の都道府県に対しては絶対にしない。
なぜか。国民としての存在を認めているからだ。沖縄人をそもそも国民として認めていない以上、政府にとって、県民投票の結果をあらかじめ無視すると決めるのはあまりにも当然すぎることなのだ。
あまりにも当然すぎるのは、無意識的に沖縄人の国民としての存在を認めていないからだ。あるいは、沖縄人を国民として認めないことがあまりにも当然すぎて意識することもないといってもよいだろう。
国民としての存在を認めないこと。これを差別という。ただし、それは無意識的である。差別のほとんどは無意識的になされる。そして、無意識だからこそ、より悪質で深刻なのだ。無意識的になされる以上、差別者は、自身の行為を差別とは意識しない。したがって、差別者が自ら差別をやめる可能性もないに等しい。だからこそ、他者が差別を指摘して意識させなければならないのである。
差別を言葉で表現すること。これを差別発言という。岩屋大臣の発言は、典型的な差別発言である。ただし、無意識的に発言しているので、ご本人は決して差別とは思っていない。
差別発言が問題なのは、発言という行為自体が暴力へと転化することがあるからだ。差別発言は、行為遂行的に差別を正当化する。差別が正当化されると、差別の終わりがみえなくなる。だから、差別される側が傷つくのだ。このとき、差別発言はまぎれもない暴力として機能している。差別発言とは、それ自体が差別行為なのだ。
差別行為は、差別発言に限らない。他に対してはやらないか、できないことを行うことも差別行為である。その典型が、米軍基地の押しつけであり、辺野古の埋め立てであり、県民投票結果の無視である。これらは、全て暴力である。
より正確には、差別的暴力である。実際に沖縄人に多大な被害をもたらし、沖縄人の心を深く傷つけているからだ。ところが、このような行為は、他の都道府県に対しては絶対にやらないし、できない。無意識的に、国民としての存在を認めているからだ。
このように、沖縄人の国民としての存在を認めない差別は、すでに、大きな暴力へと発展している。社会学的には、差別が制度化されているといっても過言ではない。多数者の少数者への差別の制度化。これを植民地主義という。
そして、この植民地主義体制を無意識的に支えている張本人こそ、一人一人の日本人にほかならない。一人一人の日本人が、無意識的に、沖縄人を同じ国民として扱っていないからだ。一人一人の日本人が、無意識的に、沖縄人を差別しているからだ。
70%もの在日米軍基地を押しつけている事実を意識せず、基地の引き取りすら主張しない日本人が圧倒的多数であることが何よりの証拠だ。この日本人の無意識を意識へと転換させるために、県民投票は実施されたのだといっても過言ではない。
日本人よ、基地を引き取って植民地主義と訣別しよう! 内田樹さん、あなたもだ!
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のむら・こうや 1964年沖縄生まれ。上智大大学院を経て2003年より現職。専門は社会学。著書に「無意識の植民地主義―日本人の米軍基地と沖縄人」(御茶の水書房、6月に松籟社より再刊予定)など。