ベトナム沖救助から36年、涙の感謝 沖縄水産高実習船が「命つなぐ」


この記事を書いた人 Avatar photo 与那嶺 明彦
36年前に救助してくれた翔南丸の元船長・宮城元勝さんに感謝の言葉を伝える南雅和さん=16日、東京都内のベトナム料理店

 「命をつなげてくれた沖縄の人にお礼が言いたい。恩は一日も忘れたことがない」。東京都内でベトナム料理店を営む南雅和さん(50)=ベトナム名ジャン・タイ・トゥアン・ビン=が抱き続けた思いだ。南さんは1983年8月、木造船で祖国ベトナムから逃れ、ホーチミン沖合で沖縄水産高校の生徒を乗せた県実習船「翔南丸」に救助された。本紙取材がきっかけで救助船の名称や当時の船長・宮城(旧姓下地)元勝さん(75)の所在が分かった。16日、救助から36年を経て宮城さんと電話で会話した南さんは、涙をぬぐいながら感謝の言葉を繰り返した。

 83年8月4日、14歳だった南さんを乗せた小さな木造船がベトナムを出航した。祖父の後押しもあり、苦境を打開するため国外脱出を決意した。出航から4日目の深夜、黒い海に小さな光を見つけた。翌朝、日本の船と分かり、たいまつや浮輪を振って救助を求めた。南さんは「助かった。生きていられる」と当時を振り返った。

 翔南丸は沖縄水産高校の実習生ら69人を乗せ、同年6月に那覇の泊漁港を出航し、帰港する途中に木造船を発見した。翔南丸の最大搭載人員は75人だったが、宮城さんの判断で木造船にいた105人全員を救助した。翔南丸はフィリピンのマニラに針路を変え、全員を同政府に引き渡した。

 南さんは、マニラから長崎の収容施設を経て同年11月、日本赤十字社県支部が本部町に設置した本部国際友好センターで約8カ月間を過ごした。その後に南さんは東京へ渡り、第二の故郷として日本の定住を決意した。90年代に日本国籍を取得し、現在、千代田区内幸町でベトナム料理店「イエローバンブー」を営む。

 昨年夏、県内の私立高校で教える高校教師が南さんの飲食店を訪問。36年前の救助について聞かされ、その内容を本紙に伝えた。本紙は関係機関に照会し、救助船の船名や宮城さんの所在を確認した。

 南さんは「助けてもらわなかったら今ここにいません。長い間お礼が言えなくてごめんなさい」と涙ながらに感謝の言葉を伝えた。「今までの人生を報告したい。沖縄に行きます」と再会を約束した。

 宮城さんは「良いことをしたと思う。成功されている方の話が聞けてうれしい」と喜びを語った。
 (中川廣江通信員)