小笠原諸島は英語圏で「Bonin Islands」と表記する。「ボニン」は「無人(ぶにん)」のなまりとされる。長く無人島だった小笠原諸島に最初に住み着いたのは、1830年にやってきた欧米人やハワイの先住民らの二十数人だった。76年に明治政府が領有を宣言し、島民は「帰化人」となる。太平洋戦争後の23年間の米国統治を経て、1968年に日本に返還された。
「新島民も増えて、新しい文化もどんどん入っている。欧米系島民も負けないようにしないとね」
小笠原村役場の総務課長、セーボレー孝さん(61)がそう笑ってみせる。1830年に父島にたどり着いた米マサチューセッツ州出身のナサニエル・セーボレーさんの子孫で、5代目に当たる。1968年の返還時に「孝」に改名したが、島民は今も英名の「ジョナサン」や「ジョナ」と呼ぶ。
小笠原では、19世紀から島にいた欧米人のルーツを持つ「欧米系島民」、明治から戦前に日本本土や伊豆諸島から移住した「旧島民」、68年の返還後に住み着いた「新島民」と便宜上使い分けることが多い。現在では人口の9割が新島民だ。
欧米の捕鯨船や貿易船が太平洋に進出した19世紀、米国は寄港地を確保しようと日本に着目した。1853年、米海軍のペリー提督は徳川幕府との交渉を前に、琉球や父島に立ち寄っている。父島で対応したのがナサニエルさんだった。セーボレーさんの自宅には、当時ペリー提督とナサニエルさんが結んだ土地売買契約書のコピーが保管されている。
明治以降は本土や伊豆諸島から多くが小笠原に移り住み、戦前に人口は8千人近くまで膨らんだ。しかし、太平洋戦争で小笠原を占領した米軍が島に居住を認めたのは、欧米系の住民約130人だけだった。
米統治下で生まれたセーボレーさんは家庭では日本語が中心で、学校では英語を話した。島の映画館で西部劇を楽しみ、独立記念日やクリスマスを盛大に祝う。米国流の生活スタイルだったが「米国人という意識はなかった」という。「ハワイのハワイアン、グアムのグアメニアンのように、島の先輩は自分をボニン・アイランダーと言っていた。僕もそうなのかなと思っていた」
小笠原で生まれた子どもは小中学校を卒業後グアムの高校に進学した。だがセーボレーさんが10歳だった68年6月に返還が訪れ、生活は日本式にがらりと変わる。学校で教わる内容も「ABC」から「あいうえお」になった。
返還を機に日本語を学ぶため日本本土に転校してから、セーボレーさんは自身のルーツを強く意識するようになった。太平洋を渡って小笠原に来た祖先は何者だったのか。その足跡を調べ始め、島に戻って役場に就職してからも祖先の出身地を訪ねたり、資料を集め続けたりしてきた。
返還から半世紀。かつての小笠原を知る証言者は少なくなった。セーボレーさんは「小笠原の歴史は教科書に出てこない。それをしっかり残し、伝えていきたい」と語る。
(當山幸都)