〈重荷を負うて道を行く 翁長雄志の軌跡〉1 プロローグ 苦痛の中「幸せ」かみしめ


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記者会見で辺野古埋め立て承認の撤回を表明する翁長雄志。3日後には再入院した=2018年7月27日、県庁

 「ゆっくり寝るって、こんなに幸せなことなんだな」。病床の翁長雄志が弱々しく、しかし実感を込めてつぶやく。がんが肝臓に転移し、亡くなる数日前の激しい苦痛の中、人生で初めてゆっくり寝ることの幸せをかみしめているようだった。「一体どんな生き方をしてきたっていうの」。寄り添う妻・樹子は言葉を失った。政治の激流で常に緊張を強いられてきた雄志の人生の過酷さに、改めておののいた。

 雄志は知事4年目の2018年に入ってから体重が減少し、体調不良が相次いだ。米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古の新基地建設を巡って政府と激しく対立し、民意を背に走り続けていた。4月に受診した人間ドックで再検査が指示され、精密検査で膵臓(すいぞう)がんが見つかった。手術を経て5月に退院、転移や再発を抑える化学療法を続けて公務への本格復帰を目指した。だが、がんの進行は抑えられず容態は悪化した。

 沖縄防衛局は6月、辺野古への土砂投入を8月17日に開始すると通知。雄志は7月27日、県庁で記者会見し、辺野古埋め立て承認を撤回する方針を表明した。迫る辺野古への土砂投入、そしてがん。二つの嵐の中で雄志は政治家としても人間としても手を尽くし、必死にあらがった。

 「記者の質問に答えられるかな」。27日朝、玄関を出る雄志は珍しく弱音を吐いた。病状は既に重く、体調はぎりぎりの状態だ。樹子は「大丈夫に決まってるじゃない」と背を押した。30分間の会見を終え、帰宅した雄志は玄関でいすに腰掛け、数分間息を整えた。廊下やリビングでも休み、玄関から寝室へ移動するのに20分もかかった。立っているのもやっとの状態だった。3日後の30日、雄志は再び入院した。

 抗がん剤の効果は乏しく、副作用もあった。生きるための選択肢は日に日に減っていく。弱っていく雄志は、樹子の肩に頭をもたれさせ「苦しい」と漏らした。口内炎が悪化し、水を飲むにも苦痛が伴った。8月5日ごろ、雄志は新聞を手渡した樹子に「ごめん、読めない」と言った。雄志の日課のため樹子が毎朝、新聞を病床に届けていた。だがもう目を通す力は残っていなかった。

「僕は12月まで持たない」

公務、死を覚悟した闘い 次期知事選、気に掛け
 

 「やっぱり明るいのが一番だよな」と雄志がつぶやいた。8月4日前後のことだ。樹子は「主語もなく、突然だった。子どもたちのことならいつものように名前を言うはずだ。後で玉城デニーさんのことだと分かった」と語る。4日に副知事の謝花喜一郎らが病室を訪ね、次の県知事選のことを含め、今後について20分ほど話し込んでいた。

膵臓に腫瘍が見つかり、手術を受けることを公表する翁長雄志=2018年4月10日、浦添総合病院

 雄志が挙げた名前は玉城デニー、呉屋守将の2人。この時のやりとりを録音した音源を聞いた県議会議長の新里米吉によると、雄志は玉城デニーが選挙に出た場合の地域ごとの情勢について分析していた。自身の市議選、県議選、市長選、知事選を戦ってきた経験に裏打ちされた言葉だった。新里は「辺野古の埋め立て承認撤回のことを含め県政全般について話していた。選挙については前日も話していたそうだから、記録に残そうということになったのだろう」と語る。

 樹子は「デニーさんと呉屋さんのことは前から話していた。呉屋さんは組織を抱えているから(後継は)『厳しいよな』と言っていた。翁長の中で、自然にデニーさんに収斂(しゅうれん)されていったはずだ」と振り返る。死の寸前まで知事として、政治家として闘い続けた。

 雄志の膵臓(すいぞう)がんが見つかったのは2018年4月。精密検査で膵臓の中心から末端にかけての「膵体尾部」に2センチを超える腫瘍が見つかった。ステージ2のがんだ。「子どもたちには君から伝えてほしい」と言われ、樹子は知事公舎に子どもたちを集めた。

 「助静さん(雄志の父)も膵臓だったから聞いた時はどきっとした。2006年に胃がんを患ったが家族で乗り越えた。あれから十数年、『今度も』と思ったけど」と樹子は語る。4月10日、雄志は病院で記者会見し、腫瘍が見つかったことを公表した。

記者会見で膵臓に腫瘍が見つかったことを公表する翁長雄志(右奥)=2018年4月10日、浦添総合病院

 手術を終えた雄志は5月15日、病院で開いた会見で公務復帰に意欲を示した。笑みも浮かべて「任された責任を全うしたい」と述べたが、食事制限の影響もあり入院前より痩せていた。

 手術から1週間後、狭心症のような発作が雄志を襲った。検査を受けると、がんは肝臓に転移していた。「僕は12月まで持たない。あとは精いっぱい闘う姿を皆さんに見てもらうしかない」と雄志は言った。樹子は主治医に「後の命は要りません。撤回まで人前で真っすぐ立てるようにしてください」と懇願した。

 それから6月23日の沖縄全戦没者追悼式を経て、埋め立て承認撤回を表明するまでの2カ月半、公務はいつ訪れるか分からない死を覚悟した闘いになった。

 再入院した病室で雄志は「県民には『足りない』と言われるかもしれない。でも自分にできることは精いっぱいやった」と語った。樹子は「あなたに足りないと言うウチナーンチュはいない」と答えた。

 樹子には忘れられない雄志の言葉がある。「みんな生活や立場があるけど、未来永劫(えいごう)、沖縄が今のままでいいと思っている県民は一人もいない」。保革に分断され、米軍基地との共存を強いられてきた県民の悲哀を見てきた雄志の本心だった。
 (敬称略)
 (宮城隆尋)

(琉球新報 2019年3月18日掲載)