翁長雄志(たけし)は1950年10月2日、父・助静(じょせい)、母・和子の三男として、真和志村(現在の那覇市)大道で生まれた。5人きょうだいの末っ子だった。助静は教師から政界に転じ、真和志市長や立法院議員を務めた政治家だ。選挙の度に家族ぐるみで闘った。
沖縄戦を生き延びた助静は46年、真和志ハイスクール校長として生徒を連れ、野ざらしになっていた戦没者の遺骨を集めた。遺骨は1306体に上り、埋葬のために掘った穴に入りきらず、小山になった。そこに助静たちが建立したのが戦後初の慰霊塔である「魂魄の塔」だ。
助静が政界に転じたのは48年2月の真和志村長選。ともに魂魄の塔を建立した金城和信村長にこわれ、後継候補として擁立された。宮里永輝を破り、初当選した。真和志村長、同市長を務めた後、60年からは立法院議員も務めた。
助静が立法院でリーダーシップを取り、可決させたのが沖縄の早期復帰を求める62年の「2・1決議」だ。助静は発議者を代表し、壇上で述べた。「日本領土内で住民の意思に反して不当な支配がなされていることに対し、国連加盟諸国が注意を喚起することを要望し、沖縄に対する日本の主権が速やかに完全に回復されるよう尽力されんことを強く要請する」。
米統治の不当性を訴えた決議文を巡って当初、与野党で駆け引きがあった。60年12月に国連総会で採択された植民地独立付与宣言に基づいた内容にするよう求める野党に対し、与党が難色を示していた。最終的に助静が間に入る形で与野党が歩み寄った。
決議は全会一致で可決され、国連加盟104カ国に送付された。与野党の垣根を超えて決議が実現した背景には相次ぐ事件・事故があった。55年に米兵に女児が殺害された「由美子ちゃん事件」、59年に児童を含む17人が死亡した宮森小学校ジェット機墜落事故が起きていた。
雄志は父・助静について「政治を志す原点」と述べている。雄志の妻・樹子(みきこ)は「沖縄の問題は保革関係なく一緒に行動しなければ前に進まない。この考えは助静さんと(雄志に)通じていると思う」と語る。
雄志のいとこの国吉真太郎も「(助静は)保革と言わず、政治家という枠にもとらわれない。『政治家か歌人か』と問われた際には『私は歌人だ』と答えていたそうだ。翁長家が保守でありながら保守の考え方だけで測れないのは、そういった幅広さと柔軟性があるからだ」と話す。
保革を超えて沖縄の立場を主張し、将来を展望する。後の雄志を支えた価値観は父・助静の背を見て培われた。
(敬称略)
(宮城隆尋)
(琉球新報 2019年3月19日掲載)