2歳の頃、雄志ははしかをこじらせて肺炎になった。乏しい医療環境の中だったが何とか回復した。心配した両親は雄志に体力を付けようと、幼稚園に上がるまでアタビー(食用ガエル)を週2~3回、与えるようになった。選挙の度に全てを費やす浮き沈みの激しい家庭で、他のきょうだいが味わえないごちそうだ。後年、雄志は「鳥と似て、さっぱりした最高の味。兄、姉にうらやましがられた分、さらにおいしかった」と振り返っている。
大道小学校に上がる頃には雄志も父の選挙を手伝うようになった。支持を呼び掛けるビラを配り、ポスターを貼って回った。
助静が政界を奔走する一方、和子は栄町市場で商店を営み、家計を支えた。幼い雄志は家にいる時間の大半を祖母・ウシと過ごした。ウシは日中、電話がかかってきても「たーんうらん(誰もいません)」と言って切ってしまう。日常をしまくとぅばのみで暮らし、雄志との会話もしまくとぅばだった。翁長雄志後援会長で雄志のいとこでもある国吉真太郎は「雄志が政治家としてしまくとぅばを好み、また自在に話すことができた背景には、おばあさんと過ごした幼い頃の時間がある」と語る。
言葉に対する意識は幼少時から高かった。2年生の頃の「ねこ」という作文が大道小の文集に載っている。「ねこはあついのに 日なたぼっこをしているのです。ぼくは大きなうちわをもって うんとあおいでやりました」「ぼくは ねことのいたずらが おもしろいです」。教師から「とてもおもしろくかけています」と評価されている。
4年生の頃には那覇市が市制40周年を迎え、雄志は「那覇市の将来」という作文を書いて表彰された。雄志は「那覇市長になる」という夢を抱くようになった。5年生になると児童会長選挙に立候補。雄志は1500票中630票を得て児童会長になった。これが人生初の「当選」だ。
助静が挑んだ激しい選挙の余波は学校にも及んだ。選挙の翌日、助静を破った対立候補の名前が職員室の黒板に大書され、教師たちが「万歳」と叫んでいたのを目にした。教職員組合が対立候補を支援していた。
雄志の将来を決定付けたのは6年生の頃の出来事だ。助静が62年の立法院議員選で落選、政界引退を決意した。支持者が去った事務所を片付ける和子に雄志は抱き寄せられた。「あんただけは政治家になるんじゃないよ」と涙ながらに訴える和子。だがその時、雄志は「絶対に政治家になる」と心に決めた。
同じウチナーンチュ、同じ地域の人々が保革に分断される中で闘い続けた助静。父の背を見て育った雄志の揺るがぬ決意だった。
(敬称略)
(宮城隆尋)
(琉球新報 2019年3月20日掲載)