〈重荷を負うて道を行く 翁長雄志の軌跡〉4 第1部 政治家一家 教公二法闘争、学校へ波及


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 翁長雄志が真和志中学校3年の頃、14歳上の兄・助裕(すけひろ)が立法院議員選挙に出馬した。政界引退を決意した父・助静(じょせい)が後押しし、保守系からの立候補だった。雄志の小学校、中学校の恩師たちは教職員会の仲間と共に対立候補を応援し、自宅の周辺も練り歩いた。翁長家は助静の時と同じように総出で戦った。

 1966年、雄志は那覇高校に進学した。級友からの人望が厚く、級長を任されることも多かった。陸上やバスケットボールなどのスポーツが得意な半面、吹奏楽部でトランペットを演奏することもあった。

 同級生の仲宗根辰夫(68)は「リーダーシップのある、芯の強い男で慕われていた」と語る。誘われて雄志の家に泊まった際、翌朝の食卓に中味汁が出てきた。仲宗根が「お祝いでもあったのか」と聞くと、雄志は「あらん、わったーやー、ちゃーうりやんどー。さむれーの出やんどー(違うよ、うちはいつもこれだよ。武士の出身だから)」と言ったという。仲宗根は「がんまり(いたずら)かもしれないけど、すごいなと思った」と振り返る。

 実際、翁長家は下級士族として代々首里大中町に住んでいたが、廃藩置県後の激動で読谷村の開墾地に移った。しかし雄志の曾祖母の「首里城の見える所に」という希望に添い、真和志村(現在の那覇市)の字真嘉比後原(くしばる)の原神(はるがん)に移り住んだ。そこで父の助静が生まれている。

 仲宗根は学校の階段に座り、雄志と2人で話し込んだことがある。「雄志がある教科の点数が良くないことを問うと、その教科の担任に『嫌みを言われた。勉強したくなくなるよな』と言っていた」と語る。

 当時の沖縄は教職員の政治活動を制限する条項などを盛り込んだ教育公務員二法(教公二法)を巡り、法案が提出された立法院だけでなく教育界も巻き込んで議論が沸騰していた。教職員のストライキ(10割年休闘争)も相次いだ。

 授業がつぶれることを期待する生徒たちから「次のストはいつですか」と問われた教師は「翁長に聞け。あいつは、おやじも兄貴も自民党員だ。彼らが強行しようとする時がストだ」と言った。

 教公二法案は立法院与党の民主党が強行採決に動いたが、沖縄教職員会による立法院包囲行動などを受けて67年2月に廃案となった。復帰運動は盛り上がり、アンガー高等弁務官は主席公選の実施を発表した。68年11月の主席公選で屋良朝苗主席が誕生した。

 雄志は「政治家にはしない」という母の意向に沿って、医学部のある大学を目指すことになる。しかし級友にもことあるごとに「将来は政治家になる」と公言していた。
 (敬称略)
 (宮城隆尋)

那覇高校1年の学園祭で撮影された記念写真。前列左から2人目が翁長雄志=1967年1月21日(仲宗根辰夫氏提供)

(琉球新報 2019年3月21日掲載)