〈重荷を負うて道を行く 翁長雄志の軌跡〉6 第2部 政界へ 「市議から出発」に思い


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同級生との演奏でトランペットを吹く雄志(左)=1981年(仲宗根辰夫氏提供)

 大学卒業後、沖縄に戻った翁長雄志は兄が始めた土木会社で役員を務めた。ただ技術者ではないため、実際の建設作業に携わるわけではない。作業が終わった後に側溝にたまった土を取り除くなど、雑用のような作業にも汗を流した。雄志の心には「もしかして俺は一生、専門外の仕事をしているかもしれないな」と不安もよぎった。しかし「政治の力で県民を一つにしたい」との思いは変わらず抱き続けていた。

 その頃、那覇高校で同級生だった仲宗根辰夫(68)に娘が生まれ、1歳の誕生祝いを迎えた。高校で一緒だったメンバーが集まる中、雄志は真和志中で吹奏楽に携わった仲間を集めてきた。仲間との演奏で、雄志はトランペットを吹いた。仲宗根は「感激した。雄志は皆の結婚式で司会をしているものだから、模合で『奥さんは元気か』『子どもは』といつも気に掛けていた」と語る。

 会社勤めの間も雄志は中学校や高校の同級生と模合をつくったり、友人の結婚式で司会をしたりして横のつながりを保っていた。同窓会の呼び掛け人を引き受けることも一度や二度ではなかった。さらに会社役員として青年会議所(JC)のメンバーになったことで新たな人脈も生まれた。

 雄志は後年、大学を卒業してすぐに出馬しても「政治家一家の力で当選できたとは思う」と振り返っている。しかしはやる気持ちを抑え、9年間で独自の人脈を広げた。以前から「将来は那覇市長になる」と公言していたこともあり、周囲から期待の声が上がり始める。

 雄志は85年の那覇市議選への出馬を決意する。翁長雄志後援会で婦人部長を務めた森田君子(81)は「お母さん(和子)は『政治家にはなるな』と言っていたが、本人の熱意に打たれて『本当にやるのなら頑張りなさい』と了解したそうだ。当初は兄が反対したが、姉たちも『雄志に任せる』と言っていた。政治への情熱が強くあったから、家族も自然に支えたのだろう」と語る。

 森田は仲間と共に大道地域の婦人会を組織し、発会式で雄志に司会をさせた。「『司会は助静さんの三男坊です』と紹介したら大きな拍手があった。司会ぶりは慣れたもので、見事だった」と振り返る。地域のつながりを生かして後援会にも婦人部を設立し、地域で雄志を支えた。

 家族や友人は雄志に市議選ではなく、県議選への出馬を勧めた。しかし雄志は市議選にこだわった。「目標は那覇市長。那覇市について知るためには市議から出発したい」との思いからだった。選挙戦が近づくと家族、地域だけでなく同級生や経済界からも組織的に雄志を支える動きが出てきた。

 (敬称略)
 (宮城隆尋)

(琉球新報 2019年3月24日掲載)