翁長雄志は1985年の那覇市議選に自民党公認で立候補した。雄志の選挙の特徴は家族や地域だけでなく、同級生や若手経済人が支えたことだ。中学、高校の同級生、青年会議所(JC)の仲間がそれぞれ「雄志(ゆうし)会」を結成。総勢500人が「雄志を政治家に」ともり立てた。
総合建設業の大城組を中核とする大扇会の大城浩も、雄志の1歳上のJC仲間だ。雄志の後援会で青年部長も務めた大城は「普段からよりどころとなり、意見を交わせるブレーンのような組織を作ろうと皆で動いた。市議や県議でそういう組織を持っている政治家は、当時ほとんどいなかった」と振り返る。
翁長雄志後援会には家族や親類のほか、父・助静(じょせい)の選挙を支えた人々、県教育委員長を務めていた兄・助裕(すけひろ)の支援者らも結集した。婦人部は地域の女性たちを巻き込んで運動を広げた。雄志会の若者たちは那覇市大道の後援会事務所に毎日集まり、手弁当で選挙を支えた。のりの入ったバケツとはけを抱え、市内各所を回ってポスターを貼った。ビラも配り、支持を呼び掛けた。関わる人数と運動量は市議候補の中でも群を抜いていた。
大城は「雄志は確固たる志を持っている。皆で沖縄の将来を背負って立つ、沖縄のヒーローとなる政治家にしようと頑張った」と振り返る。
婦人部長を務めた森田君子は「婦人部で当選祈願の千羽鶴を折り、那覇市民会館で開いた大会で掲げた。市議選で市民会館の大ホールを埋められる候補者はそうはいない。熱気に武者震いした」と語る。
投票は7月14日、開票は翌15日に行われた。15日午後0時すぎ、那覇市大道の事務所に、開票所の支持者から「4千票」との連絡が入った。当選確実となり、雄志が支持者に胴上げされる。若者たちが太鼓を打ち鳴らし、「万歳」の叫びがこだまする。
当時最年少となる34歳での市議当選。雄志は激しい選挙運動でしゃがれた声で「人と人との触れ合いを大切に、情けの分かる政治家を目指したい」と語り、日焼けして真っ黒になった顔をほころばせた。そばで妻の樹子も目を真っ赤にして雄志を見つめた。
雄志の得票数は翁長政俊に次ぐ2位の4千票余。当選ラインだった2千票の倍を超えていた。政治一家の家系が注目され、当初から「大物新人」の呼び声が高かったが、雄志が独自に築いた人脈も加わっての当選だった。
那覇市議会は定数44議席のうち、保守系が改選前を2議席上回る23議席を占めて過半数となり、保革が逆転。親泊康晴市長の革新市政は少数与党に転落した。
(敬称略)
(宮城隆尋)
(琉球新報 2019年3月27日掲載)