〈重荷を負うて道を行く 翁長雄志の軌跡〉8 第2部 政界へ 日の丸、君が代巡り紛糾


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日の丸、君が代を巡って傍聴席からもヤジが飛ぶなど大荒れとなった那覇市議会=1985年9月30日

 那覇市議に初当選した翁長雄志は、自民党を中心とした保守系議員でつくる野党会派「新政会」に所属した。同じ会派には同期当選の浦崎唯昭(いしょう)がいた。浦崎は那覇市議を務めた父・唯治(いじ)が雄志の父・助静の那覇市長選を支援したこともあり、助静や雄志の兄・助裕とも親交があった。自然な流れで活動を共にした。

 翁長は那覇市大道出身だが浦崎の地盤は前島。市議選の際、真和志にある浦崎の同級生の家を雄志が訪ねたことがあった。選挙後、雄志は「ごめんね、唯昭さん。同級生の家に行ってしまったよ。分からんかったさ」と言ってきた。同級生の家は「浦崎唯昭連絡所」の看板が出ているため、分からないはずはない。浦崎は「自分の地元なのだから気にせず行けばいい。黙っていても一向に構わなかったが、そういうことを隠さずに言ってくる人だ」と雄志の人柄について語る。

 雄志や浦崎ら複数の保守系新人が当選し、親泊康晴市長の革新与党は少数となっていた。野党は攻勢を強め、さまざまな議案を巡って議会は紛糾、空転した。

 1985年の市議会で特に荒れたのは9月30日、市議会9月定例会最終日だ。雄志たちの新政会が提案した「日の丸」「君が代」励行決議案を巡り、与野党が激しく対立した。この年、文部省は各学校の卒業式で「日の丸」を掲揚し「君が代」を斉唱するよう都道府県教育委員会に通達している。県内ではまず具志川市議会が励行決議を可決した。那覇市議会も委員会審議を経て本会議に諮っていた。

 決議案は「国旗掲揚、国歌斉唱の実施率が他府県より極めて低いのは遺憾」として、市内の小・中・高校などで掲揚、斉唱を励行するよう求めた。野党の雄志と翁長政俊(共に新政会)が賛成討論に立ち、与党から赤嶺政賢(共産)らが反対討論した。

 度々休憩が入り、議員同士がもみ合うなどして審議は再三ストップ。反対の立場で発言を求める議員が相次ぐ中、新政会は討議打ち切りの動議を出した。議長の判断で採決に移り、野党22人が起立して賛成多数で可決した。傍聴席に詰め掛けた約100人の市民は抗議の声を上げ、立ち上がって拍手する雄志の背後からも怒号が飛んだ。

 雄志は小学生の頃、復帰運動の一環で教師から日の丸を作らされ、君が代を歌わされた。後年、それらへの考え方を「復帰すると今度は『悪だ』と言うことはできない。軍国主義がアジアの皆さんに迷惑を掛けたことは否めない。しかし政治運動はあくまで政治運動だ。日の丸そのものに責任を転嫁するのではなく、それらについて歴史的に検証し、日本の政治を論じなければ実のある話にはならない」と述べている。

 (敬称略)
 (宮城隆尋)

(琉球新報 2019年3月28日掲載)