1992年6月7日、那覇市大道の選対本部でテレビに当選確実の速報が映し出された。沸き立つ支持者。記者のカメラが翁長雄志に焦点を合わせる。しかし後援会長の大城浩が待ったをかけた。各社の速報が出そろうまで万歳をさせなかった。
大城は「大物新人だからと『9千~1万票取れる』と予想する人もいた。しかし実際の選挙戦は簡単ではない。上滑りした印象さえあった」と語る。保守系候補16人が乱立した県議選那覇市区。真和志だけでも自民から西銘恒三郎、嘉数昇明が現職として立候補し、地域や企業などの人脈が雄志と競合した。
「2人は真和志南部で、こちらは北部だから完全に重なるわけではない。それでもこれまで応援してきた2人との戦いは厳しかった」と大城は振り返る。
雄志は自民党の公認を受けられず無所属で立候補した。しかし兄・助裕(すけひろ)と親しかった小渕恵三が東京から駆け付け「自民党が公認しなくても、私が公認する」と演説するなど、運動は盛り上がった。
結果は6288票。得票数は那覇市区定数13人のうち11番目、当選ラインを約300票上回っただけの辛勝だった。真和志で競合した西銘恒三郎、嘉数昇明も共に当選した。しかし雄志と同様に市議から県議を目指した翁長政俊や上原清、安慶田光男らが落選し、自民党公認の久高友弘も当選できないほどの激戦だった。
雄志は当選後、取材に「政治への市民参加を(市議として)7年間訴えた実績の上に立ち、運動した。それに自民党の改革の問題。派閥争いをやる時代ではない。新しい時代に即応した政治を訴えたのも勝因だろう」と述べた。その上で「人の友情、愛情、苦労の上に成り立つのが政治だ。情けの分かる政治を展開し、政策を述べていきたい」と展望している。
自民党は公認・推薦19人のうち17人が当選。県議会定数48議席のうち保守系の当選者が27人を占め、改選前の25議席を上回って野党多数を維持した。
県議となった雄志は92年7月3日、取り壊しを控えた県議会棟の本会議場で代表質問に立った。立法院時代から県政のさまざまな課題が議論されてきた県議会棟は、立法院議員を務めた父・助静(じょせい)、兄・助裕と共に雄志が幼い頃から訪れていた場所だ。事務局に父や兄の部屋番号を尋ね、一人で訪ねて来たこともあった。
雄志は壇上で「個人的にも、県議会の壇上に立つことができたことに感慨無量なるものがある」「県民本位の県政を確立し、県民福利を追求する県議会の役割はどうあるべきか、その使命と責任の重大さをかみしめながら4年間の任期を全うしたい」と述べている。
(敬称略)
(宮城隆尋)
(琉球新報 2019年4月1日掲載)