「ソ連は崩壊しますよ」。1989年7月の那覇市議選に当選し、2期目に入った翁長雄志はある夜、言った。那覇市大道の後援会事務所で毎月開いていた会合でのことだ。青年会議所(JC)で出会った仲間や後援会メンバーらと共に参加していた大扇会の大城浩は「突然だったから、みんな『突飛(とっぴ)なことを言うなあ』とびっくりした。ソ連がなくなるなんて、誰も想像できなかった時期だ」と語る。
89年は東欧諸国で民主化革命が相次ぎ、12月に米ソ首脳によるマルタ会談で冷戦終結が宣言された。ソ連共産党書記長のミハイル・ゴルバチョフが進めたペレストロイカ(改革)はグラスノスチ(情報公開)により、さまざまな機密を公にした。
一方でソ連内部の各共和国で独立の機運が高まり、90年3月にリトアニアが独立回復を宣言した。そして91年12月25日、ゴルバチョフはソ連大統領を辞任し、雄志の予測通りソ連は崩壊した。
大城は「先を見る目、洞察力のすごさだ。時代を読むには、かなりの勉強が必要だったはずだ」と語る。後援会や市議選の選対本部をまとめてきた大城だけでなく、「雄志(ゆうし)会」メンバーからも雄志を市議会より大きな舞台に押し上げようとする動きが出てくる。
92年の県議選が近づくと雄志への待望論が広がる。選挙の1年ほど前、雄志は大城を訪ね「県全体を見て勉強したい」と出馬を相談した。大城は元々、85年の市議選の前に県議選への出馬を勧めていた経緯があり、雄志の背を押した。
出馬を決意した雄志は、大城と共に西銘順治を訪ねる。西銘は知事4選を目指した90年の県知事選で大田昌秀に敗れ、衆院選出馬を見据えていた。県内政界で西銘の影響力は大きく、翁長家とは兄・助裕が西銘県政で副知事を務めていた間柄でもある。県議選の那覇市区、中でも真和志は激戦区で自民党だけでも既に西銘恒三郎、嘉数昇明(のりあき)が現職を務めていた。雄志と大城は「県議選に出ます。皆で勝ち上がりましょう」と西銘に話した。
那覇市区には保守系候補16人が乱立した。県政を革新に明け渡した直後の自民党は、県議会で多数派を維持することを目指した。公認を巡る派閥間の調整が長引く中、那覇市区で4人が公認されたが、若手新人で無派閥の雄志は無所属での立候補となった。
地域や企業の人脈が西銘恒三郎、嘉数昇明と競合する中、雄志は市議選と同様に幅広い青年層の人脈を生かして切り込んだ。運動の主体となる雄志会は2度の市議選で築いた独自の運動や人脈に加え、組織体制をさらに強化して初めての県議選に臨んだ。
(敬称略)
(宮城隆尋)
(琉球新報 2019年3月31日掲載)