命の山に実弾が撃ち込まれる…1970年、沖縄やんばるの住民たちは阻止した しかし日米の密約は実弾演習を許容したまま


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実弾射撃演習を阻止しようと米軍と対峙する村民ら。左から3人目が上原一夫さん=1970年12月31日、国頭村安田(上原さん提供)

 復帰前の1970年、米軍北部訓練場の森林を生活の糧としてきた国頭村民が海兵隊の実弾射撃演習に抵抗し、実力で阻止した。「伊部岳闘争」として今日まで語り継がれている。以降、訓練場では海兵隊の実弾演習は行われていない。しかし、復帰時に日米間が在沖米軍基地の使用条件などを秘密裏に定めた「5・15メモ」では訓練場の実弾訓練は許容されたまま。復帰から47年を経た現在も日米間の密約が住民生活に暗い影を落としている。

 70年から2010年まで40年間、国頭村議会議員を務め、伊部岳闘争にも参加した上原一夫さん(83)は「北部訓練場で実弾射撃をさせてはいけないというのが伊部岳闘争だった。(5・15メモで)実弾射撃が認められていることは北部三村にも連絡されていない。日米だけで決めた地域無視の一方的な密約は改定しなければならない」と批判する。

 北部訓練場が成立する1957年以前、琉球列島米国民政府(USCAR)は米軍の演習で村有地や私有地を使用する際、国頭村の許可を得る必要があった。村は使用許可を与える代わりに森林資源を守るため、実弾を使用しないことなど条件を付けた。

 57年、USCARは国頭村と東村に位置する約8650ヘクタールを米軍の訓練場に割り当てた。実弾射撃はUSCARの事前承認を得なければならないとした。

 海兵隊はベトナム戦争を機に62年、訓練場南側に特別演習区域を設置し、村民の林業や資源利用を制限。さらに70年12月、新たな実弾演習場を建設し、伊部岳を着弾地にした。

 演習場で生活の糧を得ていた村民の反対運動によって演習は中止となり、海兵隊司令官は「実弾演習はしない」と言明し空砲演習に制限した。

 しかし、「5・15メモ」では「実弾射撃は指定射撃場内で認められる」とされ、伊部岳闘争で引き出した司令官発言はほごにされた。森林資源の保護を求める住民の願いに反する日米間の密約が今日まで存続している。
 (中村万里子)