〈重荷を負うて道を行く 翁長雄志の軌跡〉16 第4部 県政へ 上原康助の擁立模索


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
海上ヘリ基地受け入れを表明する比嘉鉄也名護市長=1997年12月24日

 県議2期目の翁長雄志は1997年10月、自民党県連の幹事長に就任した。会長だった西田健次郎が翌年の参院選に出馬するため会長を辞任。幹事長だった嘉数昇明が会長となり、雄志が幹事長になった。参院選や98年11月の県知事選を見据えた態勢づくりだ。

 当時の沖縄も米軍普天間飛行場の返還・移設問題に揺れていた。日米両政府は96年4月に普天間飛行場の返還を合意。同年12月に日米特別行動委員会(SACO)最終報告を承認した。97年12月の名護市民投票では過半数が移設に反対の意思を表明した。雄志は投票結果を受け「県民全体の利益と北部振興の観点から、名護市民が高い見識の下に判断した結果だ」と取材に答えている。

 だが名護市長の比嘉鉄也は12月24日、海上基地受け入れと辞任を表明した。自民党本部へのあいさつ回りのため上京していた時に連絡を受けた雄志は「県連は全く相談を受けていない。価値判断がどこから出てきているのか疑問だ」と困惑した。

 雄志はその上京中、衆院議員の上原康助に会っていた。県知事選への出馬を打診するためだ。自民党本部が現職の大田昌秀の対抗馬擁立に消極的な中、県連として勝てる候補者を探していた。上原は全沖縄軍労働組合(全軍労)委員長を経て70年から衆院議員を務め、93年には細川連立内閣で閣僚も経験した。当時は政策研究会「未来21・沖縄」を結成し、日米安保体制を容認した上で基地を段階的に半減する「ハーフ・オプション」構想を提起。知事の大田が基地の全面返還を提唱した「基地返還アクションプログラム」とは異なる立場を取っていた。

 雄志は「県民党的なことができる知事だ。ノーの時ははっきりノーと言う、政府と手を結ぶ時には結んでいく。こういう知事を誕生させなければいかん」との思いを伝えた。しかし上原からは「あなたが言うのはよく分かる。しかし私はもうポンコツだ。私を担ぐんではなく、応援するから頑張りなさい」とかわされる。

 雄志は諦めず、関係者を通じて複数回にわたり出馬を要請した。上原の秘書を経て金武町長を務めていた吉田勝広は「翁長さんから連絡を受け、会うと『上原さんを擁立したい。これからの沖縄をどうつくるか、力を貸してほしい』と言われた。康助さんは元々柔軟で、保革を超えて取り組むべきだと考えていたから通じるところがあったのだろう。それから擁立に向けて動いた」と振り返る。

 98年2月、上原から前向きな感触を得た雄志は自民党本部に小渕恵三、青木幹雄を訪ねる。上原擁立の方向性を確認し、県連会長の嘉数昇明と共に県連幹部にも説明した。県連は3月13日の5役会議で出馬を要請する方針を決定。上原は取材に「基地問題、振興策が行き詰まっている県政の現状を憂えている」と答えている。(文中敬称略)

 (敬称略)
 (宮城隆尋)

(琉球新報 2019年5月19日掲載)