自民党県連幹事長だった翁長雄志に、1997年暮れから県知事選への出馬を何度も打診された衆院議員の上原康助は、出馬に前向きだった。県議の平仲善幸もこの頃、上原と会って意欲に満ちた言葉を聞いている。「知事になったら『こういうことをやりたい』と言っていた。上原さんでないと勝てないと思い、保守からも幅広くやった」と語る。保革を超えた期待論が広がった。
しかし上原は98年3月20日、議員会館で記者会見して不出馬を表明する。出馬の打診について上原は「政治経歴・信条、政治スタンスからして受け入れられない」「県内の政治風土・状況は自民党が社民党を擁立する雰囲気にない」と述べた。従来の保革対立を超えた自民党県連の動きは、上原の社民党離党問題と絡めて全国紙でも報じられていた。会見で、今後の自民党県連からの働き掛けを拒否する意向を示したが、一方で「県民同士のいがみ合いを乗り越え、誠意を持って擁立に動いた」と県連に敬意を表した。
表明を受け、県連会長の嘉数昇明とともに会見した雄志は「今後、県連として出馬を求めることはない」としつつ「政治的期待感は県内各界各層に広がっており、今後の県民議論にゆだねたい」と県連としてのコメントを発表した。上原が一転して出馬を決断した場合、保革を超えた動きを自民党県連として支援する選択肢も残していた。
この頃、雄志は7月の参院選に出馬する西田健次郎の選対で事務総長に就任した。全県選挙で中心的な役割を担うのは初めてだったが、従来の支持基盤にとらわれず、さまざまな人々に接触して支持拡大を模索する。沖縄市では市長選挙での協力関係を足がかりに、地元レベルで公明党関係者に支持を依頼する動きも出ていた。
那覇市議として雄志とともに選対に入った金城徹は「保守がまとまって大きな力を発揮するところに行けない中で、自民・公明で連携する話が出てきていた。翁長さんは経済界にも急速に人脈を広げ、縦横無尽に走った。兄の助裕さんを通じて小渕恵三さんらとも強いつながりを築いていた」と振り返る。当時の自民党県連は衆院議員の仲村正治とともに離党していたメンバーらが復党したばかり。「まだ前には出られない人がいて県連の人材難は危機的だったが、だからこそ翁長さんのリーダーシップが発揮された」と語る。
しかし西田は現職の島袋宗康に約5千票差で敗北。雄志は直後の取材に、自由連合の金城浩が4万票余を獲得したことを挙げて「保守票が流れた」と分析している。
(敬称略)
(宮城隆尋)
(琉球新報 2019年5月20日掲載)