〈重荷を負うて道を行く 翁長雄志の軌跡〉18 第4部 県政へ 知事選の擁立に奔走


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県知事選への不出馬を表明する上原康助=1998年7月21日

 衆院議員の上原康助は1998年3月、県知事選への出馬を否定する記者会見を開いた。自民党県連幹事長の翁長雄志らによる打診を機に動き出した流れで周辺の期待論は根強かったが、県連は会見を受けて働き掛けを止めた。すると県内の市町村長や議員、経済界、労働界の一部で上原を擁立する動きが広がる。上原は98年5月9日に政策研究会「未来21・沖縄」を設立し、シンポジウムで提言「沖縄もう一つの選択」を発表した。

 「未来21・沖縄」の会長には上原が、副会長には県経営者協会会長の知名洋二、県議の平仲善幸ら6人が就いた。

 シンポジウムで上原は、県が提唱する基地返還アクションプログラムや国際都市形成構想など知事・大田昌秀の政策を批判した。その上で基地を段階的に半減させる「ハーフ・オプション」を提起した。

 上原は6月19日、社民党に離党届を提出した。声明で「『中庸・中間・無党派層』の声を大事にする、幅広い新たな政治勢力を結集する決意だ」と発表した。

 一方、離党会見で「できれば大田知事との対決は避けたい」とも述べていた。

 上原は7月9日夜、大田と懇談している。その席で大田は上原の国会活動を評価し、これまで意思の疎通が不足していたことを認めたとされている。参院選で西田健次郎が落選すると、上原は7月21日、不出馬の意向を自民党県連や関係者に伝えた。全駐労沖縄地本など支持母体が最後まで首を縦に振らなかった。上原は声明で「関係団体に『二分化、対立』関係ができることは忍びがたい」「無党派中間層を軸にした態勢づくりが短期間では難しい」などを理由に挙げている。

 金武町長だった吉田勝広は「上原さんが決意するのなら推していこうと県内の複数の市町村長もまとまっていたが、支持母体やこれまで応援してきた人の判断も考えなければならなかったのだろう。この動きに対し、革新の人々が反対に回ったところに沖縄の難しさがある」と語る。

 県知事選まで4カ月を切り、現職の大田が6月15日に3選出馬を表明していた一方で、候補者の擁立は振り出しに戻った。

 雄志は後年、講演で「上原さんの擁立は前半、ある意味一人でやってきたので政治責任は重い。幹事長を辞めようという気持ちもあったが、恐ろしい環境を次の幹事長に渡すことになる。自分でやるしかない。ただ沖縄の政治を革新側から取りまとめようとしたのは、歴史の中の大きな動きだった」と振り返っている。

 雄志は上原の不出馬が伝えられた7月21日、取材に「必ず勝てる選挙になる。意中の人物との接触を開始した」と答えている。

 (敬称略)
 (宮城隆尋)

(琉球新報 2019年5月21日掲載)