自民党県連の幹事長だった翁長雄志は1998年7月、衆院議員の上原康助を県知事選に擁立することに失敗した。騒動の中で上原は知事の大田昌秀に対する批判を繰り返した。社民党県連委員長だった新垣善春は上原の行動が「(関係団体に)二分化、対立をもたらした」と指摘。自民党県連を「革新分断の策動を進めた」と批判した。
当時、県議だった翁長政俊は「上原さん擁立は県連としてではなく(雄志が)1人で動いていた。ただ県連でも『保革にとらわれない多党推薦の首長選を沖縄でも模索していい』と議論していた。保守の枠組みで幅広い層が乗れる選挙だ」と振り返る。「上原さんが(雄志の)話を聞いただけでも、大田さんの心中は穏やかじゃなかったはずだ。上原さんは革新の枠を出られなかったが、それでも相手(革新)にくさびを打ち込んだのは事実だ」と語る。
大田が3選出馬を表明し、保守がなかなか候補者を擁立できない一方で「革新が割れている」という印象も県民に広がった。
那覇市議として雄志と近かった金城徹も「相手を割るということだ。西田さんの参院選から公明党に接近したことを含め、結果的にそういう流れ(革新分断)を作っていた」と語る。
8月に入ると、県議会保守系各会派と経済界による候補者選考は、りゅうせき会長の稲嶺恵一、沖縄電力社長の仲井真弘多の2人に絞られる。雄志は後年、取材に「感触を探っている中で仲井真さんもまずは稲嶺さんからだ、という雰囲気だった。7月下旬にサンパレスホテルで稲嶺さんに要請したところ、受けてはもらえなかったが、県民党的な立場で物事を進めれば可能性はあるとの感触を得た。公明党の支援が何としても必要だと考え、創価学会沖縄総長だった三盛洲洋さんとも何度もさしで話をした」と擁立に向けた経緯を振り返っている。
稲嶺は県経営者協会会長の知名洋二、同協会特別顧問の呉屋秀信ら経済界から度々出馬を促されたが、当初は「全く関心がなかった」という。「熱心に説得されたが『出ろ』と言われるだけでは分からない。翁長さんは『戦える態勢をつくる。稲嶺さんなら浮動票、中間層を取れる。党は前面には出ず、別働隊で支える』と具体的に話した。公明党からも一定の支援が得られるという話だった。頑張れるのではないかと思えた」と語る。
稲嶺は琉球アジア太平洋医学交流協会の会長として8月5~11日に東南アジアを訪れたころ、出馬を決意した。帰国後、雄志の母・和子の一周忌のため兄・助裕の家を訪ね、焼香後に雄志と2人で話した。稲嶺は「『その(出馬の)方向で腹を決めたい』と話した。妻は反対していたが、その後の何日かで暗黙の了解が得られ、出馬表明した」と振り返る。
(敬称略)
(宮城隆尋)
(琉球新報 2019年5月26日掲載)