県知事選に向けた稲嶺恵一の選対本部「沖縄・未来をひらく県民の会」が1998年9月1日、結成される。会長には県経営者協会特別顧問(金秀グループ会長)の呉屋秀信が就任し、経済界を中心に幅広く組織した。16人の副会長には連合沖縄元会長の神山操、沖教組元委員長の比屋根清一も名を連ねるなど「県民党」を印象付ける態勢だった。翁長雄志は同じ県議の浦崎唯昭、平仲善幸らと共に同会幹事となった。
当時は米軍普天間飛行場の代替施設として政府が発表した海上基地建設に、知事の大田昌秀が反対を表明し、政府の沖縄政策協議会の協議がストップ。経済界で「閉塞(へいそく)状況を打開すべきだ」との声が高まっていた。稲嶺は「経済界は『このままでは沖縄は沈没する。俺たちがやるんだ』とまとまった。翁長さんは選対の隅に部屋を構え、別働隊として動いた。自民党県連は衆院の選挙区ごとに独自の事務所も構えた。その中で翁長さんは幹事長として抜群の力を発揮した」と語る。
稲嶺は政策発表で、普天間の代替施設は「軍民共用、使用期限付き」の県内移設を掲げた。公約は稲嶺の基本姿勢を踏まえて琉球大助教授だった真栄城守定、琉球銀行常勤監査役だった牧野浩隆、政治アナリストの比嘉良彦、琉球大教授の高良倉吉の4人が取りまとめた。
出陣式には自民党総務局長だった尾身幸次も来ていたが、壇上には上がらなかった。当時、自民党県連会長だった嘉数昇明は「尾身さんは何度も来たが壇上に上げなかった。党本部をはじめ公明党、創価学会との折衝など、実務は翁長さんが担った。経済界も巻き込んで一緒に選挙をやった」と振り返る。
「大田を基軸とした自主投票」の方針を採った公明党県本は、衆院議員の白保台一が大田の出発式に参加した。しかし同党支持母体の創価学会は、選挙戦終盤になって本格的に稲嶺支援に動いた。嘉数は「(公明党を)こちらへ寄せてくる作業も翁長さんが中心になっていた。翁長さんは独自の人脈も生かしたが、それ以上に父や兄も政界を歩んだ中で政治に関する嗅覚が鋭かった。国との信頼回復、沖縄の経済復興に道筋をつける選挙になった」と語る。
県知事選は11月15日に投開票され、稲嶺は大田に3万7千票余の差をつけて初当選した。94年の県知事選で雄志の兄・翁長助裕が獲得した票に16万票近く上乗せして大田を超えた。
従来の枠組みにとらわれず「県民党」で取り組んだ選挙戦が実を結んだ。稲嶺は「翁長さんは自民党支部と選対本部のパイプ役という難しい役回りを見事にこなした」と語った。
(敬称略)
(宮城隆尋)
(琉球新報 2019年5月28日掲載)