〈重荷を負うて道を行く 翁長雄志の軌跡〉22 第4部 県政へ 資料館監修委に疑問呈す


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取材に答える平和祈念資料館監修委員会の委員ら(左側の3人)=1999年

 米軍普天間飛行場の県内移設要請決議が1999年10月15日、県議会9月定例会で可決した。翁長雄志は県知事選で稲嶺恵一と共に打ち立てた「軍民共用」「使用期限付き」の県内移設の公約を後押しするため、可決を働き掛けた。稲嶺が年内に政治判断する環境を整えるため、9月議会での可決にこだわった。

 自民党県連会長だった嘉数昇明は「ベストは(普天間が)なくなることだ。しかし日米のトップが合意し、動くという状況の中で(県内移設は)ベターな選択だった。北部振興のためにも期限付き、民間空港を造るという前提で国に約束させた」と県内移設を求めた経緯を語る。

 さらに雄志が上原康助を県知事選に擁立しようとした動きを挙げて「自民党県連は党の下請け機関ではいけないという思いを彼は持っていた。戦後の沖縄を生きる中で保守の人でも(革新の言動に)『やさ』と思っている人は多い。選挙はいつも(保革)半々で、僕も心情的にはウチナーンチュは運命共同体だという気持ちを常に持っている」と語る。その上で稲嶺の公約について「県民党の立場で、県民が納得できるぎりぎりの線を探る議論をした」と振り返った。

 99年の県議会9月定例会は、2000年に開館する県平和祈念資料館の問題でも紛糾した。資料館の展示内容が、平和祈念資料館監修委員会の承諾を得ずに変更されていたことが明らかになっていた。

 壕の中を再現した模型で日本兵が持っていた銃が取り除かれ、説明文の「虐殺」が「犠牲」に書き換えられるなど、日本軍の残虐性が薄められる形に変更されていた。

 県議会野党は県執行部を批判した。県は「見え消し」と呼ばれる2枚の文書を公表したが、それ以外にも変更を記した行政内部文書があったことが明らかになる。野党は執行部への不信を強め、一般質問の出席を拒否して県議会は空転した。

 10月4日の本会議は野党不在の中、与党が議長に開議請求して開会するという17年ぶりの事態となった。展示内容は監修委員会の意向に沿った内容に戻された。

 ただ雄志は騒動の中で野党の議会出席拒否や監修委員会の在り方を度々批判し、記者会見で監修委の議事録公開などを求めた。5日の県議会本会議で「監修委員会が聖域化、絶対化されて物事が進めば間違いがあるのではないか」と大田県政で発足した監修委に疑問を示した。さらに監修委が県の資料と抱き合わせて公開する予定だった議事録を、事前に野党県議に渡していたことなどを問題視し「監修委員会の聖域化を許さないで私たち議会もこれをチェックしていく」と述べている。

 (敬称略)
 (宮城隆尋)

(琉球新報 2019年6月3日掲載)