〈重荷を負うて道を行く 翁長雄志の軌跡〉23 第4部 県政へ 那覇市長選出馬へ照準


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那覇市長選出馬について記者の質問に答える翁長雄志=2000年4月25日、那覇市内

 「おふくろ、市長選挙に挑戦しようと思う」。県議2期目の翁長雄志は46歳だった1997年、母・和子に2000年の那覇市長選に出馬することを告げた。「やりなさい。だけど負けたら政治家は辞めるんだよ」。数秒の間を置いて和子は答えた。それから数カ月がたった1997年8月11日、和子は83歳で亡くなった。

 自民党県連幹事長を務めていた雄志の言動は度々新聞で報じられていた。和子は雄志の言動に気になることがあると、すぐに電話をかけてきた。「雄志、あの言葉はおかしいよ。大衆とか民衆のことを忘れたら政治家にはなれんよ」。雄志が「分かった」と言っても「今のあんたではまだ分かっていない」と20~30分話すこともあった。ただ那覇市長は雄志の子どものころからの夢だった。

 雄志は後年、和子が「負けたら辞めるんだよ」と言ったことを「選挙に落ちてはまた挑戦する父の苦労を母はずっとそばで見ていたので、同じ苦労を息子にはさせたくない、そして政治はそう簡単ではないということを伝えたかったのだと思います」と著書で振り返っている。

 この頃、雄志は2000年の市長選に照準を定めて動いていた。中小企業団体中央会の会長を務めていた吉山盛安を訪ねた。「後援会長を引き受けていただけませんか」。稲嶺恵一の知事選に向けて共に戦った仲ではあるが、突然だった。

 吉山は「最初は冗談と思った。『僕はやったことがない。どうすればいいか』と問うと『やっていただければ、その道が教えてくれます』と言う。熱心だった」と振り返る。「このままでは那覇市がどこに向かうか分かりません。経済界を含め、うまんちゅ(皆)が一緒になって那覇市をつくっていかねばならない」と語る雄志の熱意に押され、吉山は後援会長を引き受けた。

 周辺でも市長選を見据えた動きは活発化した。浦崎唯昭ら複数の県議、那覇市議らが雄志を囲む政策集団を設立した。那覇市議だった金城徹は「翁長さんはずっと那覇市長になると言っていた。県議2期目に入って、いよいよ市長に押し上げていこうと動き始めた」と振り返る。

 ただ自民党県連での候補者選考は難航する。県連会長の嘉数昇明の擁立を目指すメンバーと真っ二つとなった。2000年に入ると嘉数は後援会の「新春の集い」で「人生の全て、政治家としての経験を結集して那覇に恩返ししたい」と出馬の決意を表明した。雄志も6月の県議選への不出馬を決め、「県議会に戻らないと決めたら、全てが吹っ切れた」と取材に答えるなど、ともに「不退転の決意」で向き合う状況となった。

 (敬称略)
 (宮城隆尋)

(第4部おわり)

(琉球新報 2019年6月4日掲載)