〈重荷を負うて道を行く 翁長雄志の軌跡〉25 第5部 那覇市長 市政刷新訴え、初当選


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稲嶺恵一(左)と共に支持を訴える翁長雄志=2000年11月

 「県都那覇市を愛する多くの方々の思いを胸に刻み市民党として市民本位の政治を掲げたい」。那覇市長選の保守・中道の候補者として一本化された翁長雄志は2000年5月15日、那覇市のロワジールホテルで出馬表明した。会見には政財界から約150人が出席した。雄志は自民党県連幹事長を5月12日付で辞任。無所属で立候補する意向を示し、保革を超えた「市民党」をアピールした。

 選挙は革新を中心に反自公勢力が擁立した、前那覇市健康福祉部長の堀川美智子との一騎打ちとなった。1988年に保守から出馬した平良哲が親泊康晴に敗れて以来、12年ぶりの保革対決となった。

 雄志の選対は7月に那覇市古島で事務所を開き、選対本部長には県経営者協会会長の知名洋二が就いた。選挙戦では98年の県知事選を共に戦った知事の稲嶺恵一と街頭に立った。選対は保守中道の市議、県議らのほか、経済界、雄志の同級生や青年会議所メンバーでつくる「雄志会」も加わった。

 後援会長を引き受けた吉山盛安は「革新市政が長く続き、問題が山積みの中に飛び込んでいった。市民にあまり知られていなかったため『自分はぴよぴよだから相当な覚悟でやらねばならない』と言っていた。選挙はお金もかかるが、一生懸命支援した」と語る。

 10月30日に那覇市で開かれた公開討論会で、雄志は「父は真和志の市長。私も那覇市に骨を埋める気持ちだ」と述べた。堀川との討論で那覇軍港移設問題を問われ「オール・オア・ナッシングかベターな方法を取るのか。SACO(日米特別行動委員会)の最終報告の着実な実行が、基地の整理縮小と経済振興につながる」と答えた。「政治は妥協の芸術作品」という言葉を挙げ、現実的な対応の重要性を強調した。

 告示日の11月5日、出陣式には知事の稲嶺のほか自民党政調会長の亀井静香、公明党幹事長代行の太田昭宏らが登壇した。告示後も自民党幹事長の野中広務が沖縄に入り、各種団体に支援を呼び掛けた。投開票された11月12日、雄志は堀川に7千票余の差をつけて当選。雄志は取材に「32年という長期政権は停滞とよどみを生んできた。(市政刷新に対する)市民の期待は大きかった」と答えた。

 選対を引き揚げた13日午前1時すぎ、妻の樹子(みきこ)は選挙戦を終えた雄志をねぎらいながら「うれしい?」と聞いた。幼少期からの夢だった那覇市長に当選した直後だが、雄志は浮かれる様子もなく「いや」と否定した。樹子は「市長は『30万市民のお父さん』と言っていた。その責任を感じながら政治をするのは想像がつかないほど重いことだ。それを感じていたのだろう」と振り返る。 (敬称略)

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 (宮城隆尋)

(琉球新報 2019年6月11日掲載)