「基地の話はするな!」と広島市内の常連の居酒屋を実質的に追い出されたのは、5月13日のことだ。「朝鮮人・琉球人お断り」を彷彿(ほうふつ)とさせる明白な差別事件である。
事件の経緯はこうだ。沖縄から広島旅行中の客3名(沖縄人1名、日本人2名)のうちの日本人1名が、まず、私に対して「沖縄大好きハラスメント」で絡んできた(差別1)。私は「そんなに沖縄が好きなら基地を引き取ってください」と対応した。
さらに、沖縄人A氏が県民投票に行かなかったことを自慢気に話したので、私が反論すると、A氏は逆ギレして「基地の話はするな!」と炎上した(差別2)。「広島に来てまでどうして基地の話をされなければならないのか」と。その場を見た日本人店主(仮にB氏とする)は、私に絡んだA氏らをたしなめるのではなく、逆に私を「この店で基地の話はしないでください!けんかになりますから」と攻撃してきた。「私はけんかしてませんよ。どうして基地の話をしてはいけないんですか?」と尋ねると、「俺の店だからです」と答えた。
「では、私に出て行けと言うのですか?」と尋ねると、店主は無言で肯定した。このままではA氏の炎上も収まらず、他の客にも迷惑だと思ったので、私は「お会計お願いします」と言わざるをえなかった。すると、店主B氏は、鬼の形相で速攻で伝票計算を終えて私に差し出した。こうして、絡んできた側のA氏らではなく、逆に私の方が実質的に店を追い出されることとなったのである(差別3)。
これは、前代未聞の差別事件である。沖日合作の「朝鮮人・琉球人お断り」事件だからだ。
まず、「沖縄大好きハラスメント」(差別1)について、初対面の他者に対して「東京大好き」とか「広島大好き」を連呼する日本人はほとんどいない。初対面の人に「あなたのことが大好きです」と言われたら、多くの人が気持ち悪く感じて当然だからだ。果たして沖縄人は、それを気持ち悪く感じる権利もないのだろうか。つまり、これは「ほめ殺し型」の差別なのだ。しかも、基地の押しつけという差別を行使している側の日本人がそれを言ったのだから、論理的には、「基地を押しつけておける沖縄が大好き」という意味になってしまうのである。
日々、基地に命を脅かされている沖縄人は、最低限、基地の話をしないと命を守ることができない。これは、生存権にかかわる問題である。よって、「基地の話をするな!」とは、きわめて重大な人権侵害にほかならない(差別2)。たとえ自分の店であろうとも、人権侵害は許されない。基地の話をさせないことは、沖縄人の命を危険にさらす行為だからだ。こんなことでは、子どもたちを守ることができない。
したがって、県民投票に行くことも、どちらに票を投ずるにせよ、子どもたちの命を守るための沖縄人の大人の最低限の責任だ。また、沖縄に帰国したくてもできない沖縄人はたくさんいる。さらに、県民投票に行きたくても行けない在日沖縄人もごまんといる。沖縄から遠く離れていようと、沖縄人は基地から逃れられないからだ。投票には、この人たちの分の価値もある。それなのに、この事実も知らず、投票にも行かなかったとなると、投票権のない沖縄人のことを最初から暴力的に切り捨てたに等しい。
さて、基地の話は、必ずしもけんかに発展しない。けんかの原因は、他にもたくさんあるからだ。したがって、店主B氏は、「けんかをしないでください」とだけ言えばよかったのである。実際、私はけんかしなかった。にもかかわらず、基地の話だけを禁止したがゆえに差別に該当するのである(差別2)。
翌日、私は再びB氏の店を訪れた。差別をやめさせるためだ。結果、B氏は、上記の説明を真剣に聴いてくれた。そして、私に深々と謝った。(差別2)(差別3)が解消した瞬間である。
差別の多くは無意識的に行使される。逆にいうと、差別を自覚することは、差別をやめるために不可欠な第一歩である。そして、自らの差別を自覚できたがゆえに、日本人B氏は、沖縄人に対する対面的差別をやめることができた。今後、B氏の店で沖縄人が差別されることは一切ないだろう。それどころか、基地の話も大歓迎されるだろう。
私は、B氏から希望をもらうことができた。日本人は、沖縄人に対する差別をやめることができる。そのまぎれもない証拠がB氏だからだ。したがって、日本人は、基地の押しつけという差別も確実にやめることができるだろう。沖縄人への差別をやめるために基地を引き取ることも確実にできるだろう。
(広島修道大教授)
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野村浩也(のむら・こうや) 1964年、美里村(現・沖縄市)生まれ。上智大大学院を経て2003年より現職。専門は社会学。著書に「無意識の植民地主義―日本人の米軍基地と沖縄人」(御茶の水書房、8月13日に松籟社(しょうらいしゃ)より再刊予定)など。