2000年1月、自民党県連は11月の那覇市長選に向けた候補者一本化を迫られていた。県議2期目で県連幹事長だった翁長雄志は、県連会長の嘉数昇明と「不退転の決意」で向き合った。知事の稲嶺恵一が複数回、2人と面会して一本化を調整した。その中で人選に漏れた方を県三役入りさせる話もあったがまとまらず、那覇市議会の保守、中道の議員29人で構成する「明日の那覇市をつくる会」が、多数決で候補者を一本化することを決めた。
同会で会長を務めていた永山盛廣は「こちらは保守中道で勝つ組織をつくっていたから、どちらも引かなかった」と振り返る。同会には1996年の市長選まで親泊康晴を支援してきた公明党の市議も加わり、経済界の支援も働き掛けて98年の県知事選と同じ枠組みを構築しつつあった。さらに現職の親泊は健康不安と多選を理由に勇退を表明し、革新側も新人の擁立を模索している状況だった。
投票結果は雄志が17票を獲得し、嘉数は11票、元NHK沖縄放送局長の比嘉良雄が1票だった。
永山は「それまで保守から誰が(市長選に)出てもコテンパンにやられていた。嘉数さんは紳士的だ。32年間続いた革新市政で根を張ったものをしっかり掘り起こし、新しい那覇市をつくるにはガッツがあり、怖い物知らずの翁長さんでないとだめだった」と語る。
嘉数を支持する市議らは多数派工作を図ったが、雄志の票を切り崩すことはできなかった。嘉数は直後に記者会見し「政治生命を懸けて市民の支持を仰ぎたい」と述べ、保守分裂の様相となった。
「明日の那覇市をつくる会」は投票後、県経済団体会議に支援を要請し、同会議は雄志支援の意向を示した。自公が連携し、経済界も本格的に選挙に乗り出した県知事選の流れに加え、衆院選を見据えて全国的に自公連携の枠組みが構築されていく影響も受け、雄志を支持する大きな流れが築かれつつあった。
知事の稲嶺は4月25日、中央政界、沖縄の保守政界に強い影響力を持つ末次一郎と県庁で面談した後、雄志と嘉数に面会して一本化を調整。同27日、稲嶺は衆院議員で自民党1区支部長の下地幹郎と会見し、雄志への一本化を発表した。
嘉数は中央政界再編の余波を受け、沖縄でも新進沖縄が誕生するなど自民党が分裂した経緯を挙げ「稲嶺知事を誕生させた一人として、保守を分裂させるわけにはいかない。県連の最終責任者として新たな火種を生まないため『翁長君、頑張りなさい』と言った」と振り返る。
雄志は県議会で開いた会見で「複雑ながら感謝の気持ちでいっぱい。嘉数氏の思いを胸に刻み、二人三脚で頑張りたい」と述べた。
(敬称略)
(宮城隆尋)
(琉球新報 2019年6月9日掲載)