社会

燃料が少なくなる中で希望の光… 救助された元難民の男性が救助船員らと再会

 「皆さんのおかげで日本人として生きている」。難民として祖国を逃れたベトナム出身の南雅和さん(50)=東京都、ベトナム名ジャン・タイ・トゥアン・ビン=は、日本で生まれ育った娘と共に来県した。救助した翔南丸の船長だった宮城元勝さん(75)=那覇市、旧姓下地=らと36年ぶりに再会し、こう喜びをかみしめた。


36年ぶりに再会した船員らに娘の亜理沙さん(右端)を紹介する南雅和さん(右から2人目)=13日午後、那覇市銘苅のジミー那覇店

 南さんは1983年8月4日にベトナムを離れ、木造船で大海を進んでいた。目の前には何度も外国船籍が現れたが、止まることなく通り過ぎていったという。燃料が残り少なくなる中、深夜に見た「最後の希望の光だった」(南さん)のが翔南丸だった。翌朝、たいまつや浮輪を振って救助を求めた。

 第一発見者の仲村正さん(73)=宜野湾市=は夜が明けきらない中、その様子を見つけ、船長の宮城さんに報告した。数人が乗る程度と思った小さな木造船は、近づくと船内から続々と人が出てきたが「人命救助は当然だ」と翔南丸で受け入れた。船内では食料が限られている中、難民にも乗組員と同じ食事が振る舞われた。南さんらベトナム難民105人は救助後、翔南丸の乗組員らと4日間、寝食を共にした。再び同じ食事を囲んだ13日、宮城さんは「今日から南さんも『同舟会』の仲間だ」と南さんを歓迎した。

 翔南丸に乗った南さんは発熱し震えて寝ていたという。そこで乗組員に看病してもらい「寒いか、寒いか」と聞かれ「サムイ」と答えた。それが初めて発した日本語だった。

 南さんはその後、大学を卒業し日本国籍も取得。日本で順風満帆な生活を送る中、助けてくれた宮城さんらにずっと感謝したかった。日本で生まれ育った娘の亜理沙さん(17)は「父が難民として助けられたのは知らなかった。話を聞けて良かった」と南さんを見つめてほほえんだ。

 (仲村良太)



関連するニュース






  • お知らせ


  • 琉球新報デジタルサービス







  • 他のサービス