日米両政府による在日米軍再編協議で2005年2月、米軍普天間飛行場の移設計画を見直すことが明らかになった。翁長雄志は那覇市長として「一喜一憂はできないが、地元負担軽減の目玉として普天間問題を位置付けているのであれば、県外、国外移設などの検討がなされているはずであり、新たな動きとして期待したい」と取材に答えた。再編を機に、沖縄の負担軽減も前進するとの期待が県内で高まっていた。
しかし05年10月、日米両政府はキャンプ・シュワブ沿岸部移設を盛り込んだ在日米軍再編の中間報告に合意した。知事の稲嶺恵一が1998年の県知事選で公約した軍民共用化や使用期限について、何の説明もなく白紙になったことに県は反発した。稲嶺は新たな移設案を拒否することを表明した。
軍民共用化や使用期限については県が移設条件として政府に提示し、県内移設を「苦渋の選択」として受け入れた経緯がある。政府は軍民共用化を念頭に代替施設を整備し、使用期限についても米側と協議することなどを1999年に閣議決定していた。しかしいずれも2006年の閣議決定で廃止されることになる。
雄志にとっては、県議だった1999年に県議会で普天間の県内移設要請決議を働き掛けた際、基地負担軽減の根拠として挙げたのが「軍民共用」「使用期限」の移設条件だった。それを踏まえ、決議では、普天間の県内移設を含む日米特別行動委員会(SACO)の合意事項を進めることが「基地整理縮小を進めるための現実的で実現可能な選択」としていた。
2005年11月、防衛庁長官の額賀福志郎と自衛隊基地所在市町村長との懇談会に出席した雄志は、会終了後に「私からは、県民感情からすると厳しい」と中間報告の内容を批判した。その上で「中身以前の問題だが、政府は沖縄県民の疑問に対してどう考えているのか、注目して推移を見ていきたい」と政府への不信感をあらわにしている。
市長公室長だった宮里千里は、04年8月の米軍ヘリ沖国大墜落事故後に開かれた市民集会に雄志と参加したことを挙げて「市長から『どうしようか』と話があり『ヘリは那覇市の上空も飛びますから、行きましょう』と言って参加した。普天間の問題は(米軍再編協議でも)大変なことになると思っていたのだろう」と語る。
その上で「だから15年使用期限の問題にもこだわっていた。日米両政府が沖縄の頭越しに(県内移設と移設条件の廃止を)決めていく中で、自分が政界に引っ張り込んだ稲嶺さんを助けたいという思いが強かったはずだ」と振り返る。
(敬称略)
(宮城隆尋)