沖縄戦の避難壕「新壕」公開 築いた故宮城弘さんの足跡たどる  


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 米倉 外昭

 沖縄戦で那覇警察署の署員や真和志村役場職員、地域住民ら約130人が避難していた那覇市繁多川の自然地下壕「新壕(みーごう)」が6日、壕の拡張構築の任務に当たった故宮城弘さんの長女、大城多美子さん(82)ら遺族の要望で特別に公開された。宮城さんの子や孫、ひ孫が関東や関西など県外からも集まり、故人の足跡をたどった。

 繁多川公民館(南信乃介館長)が協力し、地域の優れた人材「繁多川すぐりむん」に認定されている柴田一郎さん(75)が案内役を務めた。同公民館によると、壕内が一般の人に公開されるのは十数年ぶり。

 1944年10月10日の10・10空襲で建物が焼失した那覇署や真和志村役場は自然壕を拠点にしていた。戦闘が激しくなり、避難壕を探していた45年、地元の子どもたちによって偶然発見された新壕に署員らは避難することとなった。同署と同役場が共同で壕の拡張構築を進め、同署警防副主任巡査部長だった宮城さんが署長から特命を受けて構築に当たった。

 新壕は当時、3方向からの出入り口があったが現在は縦穴の入り口が1カ所だけ残されている。入り口の端から端までは約40メートルの長さがある。当時の島田叡知事も45年4月上旬から約3週間、この壕に避難した。島田知事が寝床として使用していた場所や宮城さんの発案で造られた煙道、煙道に使用された瓦や工具とみられる物、炊事場、鉄鍋などの生活用品などが残されている。

 案内人の柴田さんは遺族に「自然壕を広げるには相当な苦労と涙ぐましい頑張りがあった」と解説した。宮城さんの次女木村喜代子さん(76)と三女森朝子(ともこ)さんは「感動した」と話した。ひ孫の斉藤光汰さん(19)は「みんなのために行動した偉大な人だ」と受け止めていた。

 署員ら一行は45年5月中旬に南下し、宮城さんは5月24日に殉職した。糸満市の平和祈念公園の「平和の礎」などに名前が刻まれている。(中川廣江通信員)

宮城弘さん(大城多美子さん提供)
案内人の柴田一郎さん(手前)の解説に耳を傾ける故宮城弘さんの遺族ら=6日、那覇市繁多川の新壕