戦時遭難「台中丸」に追悼歌 遺族の遺品から発見 作家の普久原恒勇さん作曲か?


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台中丸で亡くなった恒子さん一家の写真と叔母の渡口千代さんの写真=19日、那覇市

 対馬丸が米軍の魚雷攻撃で沈没した1944年、複数の疎開船が戦火に巻き込まれて沈没した。75年の節目を迎えたこれらの戦時遭難船のうち、乗客179人が犠牲になった台中丸の犠牲者を追悼する歌の歌詞を記した資料がこのほど見つかった。叔父一家5人を亡くした医師が作詞した「台中丸哀歌」と題された歌で、遺族が保管していた。発見した遺族は「戦争の悲劇を伝える記録だ。歌い継いでいけるようにメロディーも聞きたい」と話している。

 資料は、那覇市に住む島袋文雄さん(89)が15年前に亡くなった叔母の渡口千代さんの遺品を整理していた際に発見した。

 B4サイズの用紙に「台中丸哀歌」と題された歌の歌詞が手書きで記されていた。「奄美の沖の空くらく」との一節で始まる全5編にわたる歌詞は、44年4月12日、鹿児島県奄美大島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した台中丸の犠牲者をいたむ内容だ。

島袋文雄さん

 島袋さんによると、犠牲者の中には千代さんの姉恒子さんとその夫、子ども3人が含まれていた。作詞した名渡山兼一さんは、千代さんのおいに当たり、戦前に恒子さん一家と親交があった。県出身の恒子さん一家は戦前に沖縄から京都に移住。満州の佳木斯(チャムス)医科大学の学生だった名渡山さんは、休暇を利用して京都の恒子さん宅を訪ねるなど親交を重ねていた。

 戦況が悪化する中、恒子さん一家は疎開のため、神戸港から沖縄へと向かう台中丸に乗ったという。

 恒子さんのおいで名渡山さんの親戚に当たる島袋さんは、「なぜ叔母一家が戦争の危険が迫る沖縄に向かったのか。情報統制が敷かれる中、正しい情報を知らずに沖縄を目指して不幸に遭った可能性がある」と推察した。

 資料によると、作曲は作曲家の普久原恒勇さんが手がけている。戦後、コザ市(現沖縄市)で医師として活動していた名渡山さんが、親交のあった普久原さんに依頼したとみられる。島袋さんは「メロディーを聞いて歌い継いでいきたい」と話した。
 (安里洋輔)