【識者談話】学童疎開進めた国の真の狙いとは… 石原昌家・沖国大名誉教授


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石原昌家沖国大名誉教授

 「絶対防衛圏」とされたサイパンが陥落した1944年7月7日、政府は緊急の閣議で沖縄の子どもや女性、老人10万人を本土と台湾に疎開させることを決めた。日本軍の食糧確保や足手まといになる住民を疎開させることが主眼とされるが、沖縄が陥落することを見据え、将来の戦力を温存することも狙っていたと考える。実際に「疎開先で兵隊になるつもりだった」という生存者は少なくない。

 軍の徴用貨物船だった対馬丸は中国・上海から第32軍の将兵を沖縄に輸送した後に、疎開者を乗せて長崎に向かった。米軍は僚船2隻と護衛艦2隻を加えた船団を、軍の重要な移送船と認識していたのではないか。当時、沖縄近海の制海権は米軍が握っており、日本軍は海がいかに危険な状態かを知っていた。それにもかかわらず、乗船して犠牲になった人たちはまさに国策の犠牲者だ。

 生存者や遺族にはかん口令が敷かれ、憲兵や警察に監視されていたという証言もある。目の前で友人や家族を亡くし、生き残りの罪悪感だけでなく、心の苦しみをはき出すことが禁じられた。対馬丸の悲劇や教訓の継承が難しいのも、このかん口令の影響といえるだろう。
 (石原昌家 沖国大名誉教授・平和学)