本紙、8月20日付(7面)などに掲載された田島道治初代宮内庁長官の昭和天皇との「拝謁(えつ)記要旨」によると、昭和天皇の本音が記録されているようで、昭和天皇の実像に迫れそうだ。読み進めていて、私がくぎ付けになった文字群には、ひときわ衝撃が走った。
昭和天皇「拝謁記」 識者はどう読み解く? 沖国大名誉教授・石原昌家氏「天皇制に執着、戦禍拡大」
昭和27年3月14日「私ハ実ハ無条件降伏は矢張(やは)りいやで、どこかいゝ機会を見て早く平和ニ持つて行きたいと念願し、それには一寸(ちょっと)こちらが勝つたような時ニ其時を見付(みつ)けたいという念もあつた」というくだりである。
あっと驚いたこの昭和天皇の本音の言葉は、1945年(昭和20年)2月14日の「近衛上奏文」(その一部は県平和祈念資料館にも展示してある)と、併せ読んだ時に鳥肌が立つ。
昭和天皇が昭和27年5月28日「近衛ハ公卿(くぎょう)華族であり又(また)心安く話もできた」ので、天皇へ上奏(天皇へ意見を述べる)することができたのであろう。
その近衛元首相について同年4月5日に「太平洋戦争ハ近衛が始めたといつてよいよ」と評する天皇に対して「近衛上奏文」では、一刻も早く戦争終結の手立てを取るよう説いている。
「敗戦ハ遺憾ナカラ最早必至ナリト存候(中略)敗戦ハ我カ国体ノ瑕瑾(かきん)タルヘキモ、英米の輿論(よろん)ハ今日マテノ所国体の変革トマテハ進ミ居ラス(中略)随テ敗戦タケナラハ国体上ハサマテ憂フル要ナシト存候。国体護持(ごじ)ノ建前(たてまえ)ヨリ最モ憂フルヘキハ敗戦ヨリモ敗戦ニ伴フテ起ルコアルヘキ共産革命ニ御座候…勝利ノ見込ナキ戦争ヲ之(これ)以上継続スルハ、全ク共産党ノ手ニ乗ルモノト存候。随テ国体護持ノ立場ヨリスレハ、一日モ速(すみやか)ニ戦争終結の方途を講スヘキモノナリト確信仕リ候…。以下略」(県平和祈念資料館展示より)
天皇の言う戦争を始めた人が、敗戦になっても天皇制は維持できそうだから、速やかに戦争終結の道筋を見つけるよう迫っていたのである。しかし天皇は「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と答えた。
近衛は「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来ではなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう」(「木戸幸一日記」東京大学出版会)と明言していた。
私は常々、昭和天皇が近衛元首相の「上奏」を受け入れ、即刻、戦争終結作業に着手さえしていたら、3月10日「東京大空襲」、同23日からの沖縄戦、さらに日本各地での空襲、8月6日の広島原爆投下、同9日の長崎原爆投下や日本が侵入した地域の人々の被害拡大を避けることができたであろうに、と講演などで語ってきた。
昭和天皇自身が「一寸(ちょっと)こちらが勝つたような時ニ其時を見付けたい」と語っているのは、米英軍に「出血」を強いて(戦果を挙げ)、天皇制存続の保証を引き出し、講和を結びたいという意味である。「戦果を挙げる」こと(天皇制存続)への執着が、未曽有の戦禍を拡大していったことを、「天皇自身のことば」で明白にしたのが「拝謁記」のそのくだりで、戦慄(せんりつ)すら覚える記録である。
(石原昌家 沖国大名誉教授・平和学)