〈重荷を負うて道を行く 翁長雄志の軌跡〉44 第8部 市長4期目 大差で4選、中核市移行


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出陣式で支持を呼び掛ける翁長雄志=2012年11月4日

 翁長雄志は2012年11月の那覇市長選挙に4選を目指して出馬した。それまで3回の選挙は自民、公明両党の枠組みで闘ってきたが、民主党を含めた枠組みでの出馬となった。民主党は国政与党となって以降、米軍普天間飛行場の移設問題などで革新側との溝が深まっていたことも背景にあり、雄志を推薦した。

 野党の候補者擁立は難航し、告示の約2週間前になって共産党県委で委員長代理を務めていた村山純が無所属での出馬を表明した。無投票を避ける共産による取り組みに社民、社大などが緩やかに連携する態勢となった。超短期決戦で投票率は39・43%に低迷する中、雄志は7万2千票余を獲得して当選した。

 雄志は初当選の2000年から4回の市長選で、いずれも7万票台を得て当選している。投票率や対立候補の枠組みなどはさまざまに変化したが、どんな状況でも安定した票数を獲得してきた。

 特に3期目は、過去の市長選で革新系候補者が重点的に訴えてきた基地問題でも雄志がリーダーシップを発揮した。そのため12年の市長選で基地問題は明確な対立軸にならなかった。

 4選直後の12年12月7日、雄志は市議会定例会で「オスプレイ配備をはじめ、普天間基地の県外移設に向けても県都の市長として『市民、県民の心を一つに』という思いの下、身を捨てる覚悟を固めている」と述べた。

 さらに基地問題を沖縄に押しとどめようとする全国的な世論に関連して「オール日本が示す基地政策に、オール沖縄が最大公約数の部分でまとまり対抗していくことが重要だ」と述べ、普天間の県外移設を求める考えを示している。

 市長選直前の12年10月、雄志が市長として取り組んできた中核市への移行が決まった。那覇市は13年4月1日から県内初の中核市となり、保健所の設置など県が担っていた事務のうち2490項目が移譲された。うち4割を占めたのが市独自の保健所設置に関する業務だった。そのほか、県とのやり取りで時間がかかっていた業務の簡素化、効率化が期待された。実際に母子寡婦福祉資金貸し付け業務などは、申請から支給までの期間が短縮された。

 雄志は翌14年3月、中核市移行からの1年間を振り返り「印象に残るのは市内の小学校で結核が発生し、インフルエンザ、風疹と大きな問題が立て続けに起こったことだ。移行間もない保健所がミスもなく迅速に対応できたのは3~4年かけて職員が県に出向して準備し、頑張った結果だ。保健所が最も大きな権限移譲だったので自信がついた」と手応えを語っている。

 (敬称略)
 (宮城隆尋)