瀬長フミさんと亀次郎さん、子どもたちは那覇市楚辺に43年間暮らします。沖縄刑務所に接し、道向かいには那覇港の港湾労働者が住む行政区「みなと村」がありました。1947年から50年までの間です。
不屈館館長の内村千尋さん(78)=那覇市=は、みなと村の様子を覚えています。「貧しい人々が暮らすスラム街のような所だと思っていました」
政治家・瀬長亀次郎さんの歩みは苦難の連続でした。それは戦後沖縄の激動と重なります。フミさんは亀次郎さんと共に活動します。
千尋さんは、そんな両親に反発したこともありました。「どうしてよその人のことばかりやっているんだろう。私たちのことはやってくれない、と。反抗期でしたね」と語ります。
63年2月、上山中学校の男子生徒が米軍車両にひかれて亡くなりました。運転手は軍法会議で無罪になりました(国場君れき殺事件)。那覇高校に通っていた千尋さんは強い衝撃を受け、政治意識に目覚めます。「私にとって大きな出来事。転機になりました」
千尋さんは「母は宮崎、福岡を転々として苦労した。沖縄に帰るまで大変だったと思います」と語ります。帰郷後も苦労の連続でした。大衆政治家・瀬長亀次郎さんと妻フミさん、そして家族の戦後史です。
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瀬長フミさんと亀次郎さんの体験は今回で終わります。次回から小島幸夫さんのお便りです。
戦後43年間、瀬長さん一家が暮らした那覇市楚辺の周辺
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瀬長フミさんと亀次郎さん 〈8〉 激動の歩み、重なる戦後
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琉球新報朝刊
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