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原爆乗り越えた煎餅店、廃業へ 広島 創業112年「芸陽堂」


原爆乗り越えた煎餅店、廃業へ 広島 創業112年「芸陽堂」 芸陽堂の看板商品「頼山陽煎餅」
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 9月末、原爆が投下された広島市で創業112年の歴史を持つ菓子店「頼山陽煎餅本舗 芸陽堂」(同市中区堺町2丁目)が閉店する。広島ゆかりの歴史家頼山陽の名を冠した看板商品は、手焼きの素朴な味が評判で、時代を超えて愛されてきた。立ち退き要請や原材料価格の高騰でやむを得ず廃業に至り、惜しまれながらのれんを下ろす。

 9月中旬、香ばしい匂いが漂う店内で、岡本浩史さん(62)が黙々と煎餅を焼いていた。年季の入った焼き型に卵、小麦粉、砂糖で作った生地を流し込む。配分は初代の頃から変わらない。「同じ味を目指して試行錯誤している。80歳まで続けるつもりだった」

 芸陽堂は1911年、広島市の塩屋町(現中区大手町)で創業した。初代の村田安芸さんは戦中に疎開し、45年8月6日の米軍による原爆投下で店の一帯は焼け野原に。その後村田さんは急死し、かつて店を手伝っていた平室勝三さんが現在の場所で店を継いだ。

 頼山陽煎餅は戦前、広島名物として売り出されたという。「頼山陽史跡資料館」(広島市)などによると、江戸後期の学者頼山陽は青年期まで広島で過ごした。昭和初期に没後100年を迎えて県内外で改めて注目され、店主平室敏子さん(85)は「(知名度に)あやかったようだ」と話す。

 敏子さんは24歳で平室さんの息子賢さんと結婚した。煎餅は地元企業の記念品や手土産として重宝され「多い時は1日に1300枚も焼いた」。原爆ドームやパンダなど、時代に合わせた焼き印を次々と作ったという。

 22年前、サラリーマンだった娘婿の岡本さんが後継者として製造を担うようになった。「手焼きだからこそ継ぎたいと思った」。賢さんの死後は、敏子さんと二人三脚でのれんを守ってきた。

 今年に入り大家から立ち退きを伝えられた。交渉を重ねたが、物価高の中、別の場所で続けるのは難しく、苦渋の決断をした。岡本さんは「立ち退きさえなければ」と無念さをにじませる。

 閉店を公表すると注文が殺到し、予約でいっぱいに。「どうにかならないのか」と涙を流す常連客や、「継がせてほしい」と頼む人もいる。61年間、店に立ち続けた敏子さんは「仕方がないけど寂しくて。まだ私の人生はあるから楽しんで生きないと」とほほ笑んだ。