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家族、離ればなれに 山城幸子さん(2) 10・10空襲、私の体験<読者と刻む沖縄戦>


家族、離ればなれに 山城幸子さん(2) 10・10空襲、私の体験<読者と刻む沖縄戦> 現在の那覇市住吉町。戦後、米軍に接収され那覇軍港となった
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 山城幸子さん(88)=那覇市=は1935年、那覇市住吉町で生まれました。父は渡嘉敷真順さん、母はウトさん。5人きょうだいでした。
 住吉町は那覇港の南岸側に位置します。山城さんは港を出入りする船を見て育ちました。家のそばには大きな石油タンクがそびえていました。近隣にあった住吉神社を覚えています。


 38年、山城さんが3歳の時にウトさんが破傷風で亡くなります。「母の記憶は全然ありません。顔は分からないし、写真も残っていません」
 ウトさんが他界し、10歳ほど年上の長姉はきょうだいの面倒を見ていましたが、結婚のため家を出ます。その後、真順さんは再婚します。山城さんは継母になじめず、自然と家に寄りつかなくなったといいます。母親代わりになってくれた姉の結婚にも複雑な思いを抱きました。


 山城さんはさみしい幼少期を送りました。通っていた垣花国民学校での思い出はわずかだといいます。
 「あまり家に帰りたくなかった。同じ住吉にある父の実家、実母の実家、継母の実家を行ったり来たりしていました。夜、お月さまを見ながら集落を歩いたことを覚えています」


 住吉に甚大な被害をもたらした10・10空襲以降、家族は離ればなれになります。山城さんは祖父らと行動を共にします。
現在の那覇市住吉町。戦後、米軍に接収され那覇軍港となった