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根差部の農家に避難 山城幸子さん(3) 10・10空襲、私の体験<読者と刻む沖縄戦>


根差部の農家に避難 山城幸子さん(3) 10・10空襲、私の体験<読者と刻む沖縄戦> 現在の豊見城市根差部の集落
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 10・10空襲で那覇市住吉を焼け出された山城幸子さん(88)=那覇市=は避難先の豊見城村(現豊見城市)根差部の農家で暮らします。一緒に避難したのは祖父やその家族。山城さんを含め計7人です。
 「半年くらいはいました。母屋は日本兵に取られていたので、ヤギ小屋に板を敷いて暮らしていました」
 「豊見城村史」によると根差部には第9師団(武部隊)が駐屯していました。1944年12月に第9師団が台湾に転出した後は第24師団(山部隊)や第32軍の部隊が駐屯します。
 空襲後、那覇市の避難民が助けを求めて根差部に多数押し寄せています。山城さんもその一人でした。根差部の住民も炊き出しをして那覇の避難民を支えました。
 山城さんは根差部にいた日本兵を覚えています。「北海道の若い兵隊さんから帳面をもらいました」と話します。24師団には多くの北海道出身の兵士が所属していました。
 根差部から北部に避難した時期ははっきりと分かりません。「慶良間の艦砲射撃の音が響いていたのを覚えています。大人が『慶良間だ』と教えてくれました」と山城さんは話します。
 「豊見城村史」によると、45年3月、役場や警察が北部への疎開を根差部住民に指示しますが、ほとんどは地元にとどまりました。住民は5月末から6月にかけて島尻に避難し、多くの犠牲者が出ました。