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マラリアで祖父を失う 山城幸子さん(7) 10・10空襲、私の体験<読者と刻む沖縄戦>


マラリアで祖父を失う 山城幸子さん(7) 10・10空襲、私の体験<読者と刻む沖縄戦> 名護市瀬嵩の浜
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 大宜味村喜如嘉の山中から東海岸へ下り、久志村(現名護市)嘉陽にいた山城幸子さん(88)=那覇市=ら7人は白旗を掲げて、米軍に捕まりました。「食べ物がなかったから」というのが理由でした。
 7人は歩いて瀬嵩の収容地区に向かいました。その後、祖父と山城さんの2人は瀬嵩に残され、他の5人は米兵によって別の場所に移されました。「アメリカ兵は優しかった。チョコレートをもらいました」と山城さんは語ります。
 瀬嵩には既に大勢の避難民が集まっていました。山城さんは食料の配給場所となった浜辺へ何度か通いました。そこに子どもたちが集まっていました。
 「中学校を卒業したような人が先生となり、子どもたちに『自分の名前と住所を書いてごらん』と指示して、砂の上に字を書かせていました。私も書いたと思います」
 収容地区でも食料は不足していました。マラリアも蔓延(まんえん)し、多くの人が命を失いました。山城さんと祖父もマラリアにかかりました。しばらくして別の場所にいた5人が迎えに来て辺野古に向かいましたが、祖父は亡くなり、浜辺に埋葬しました。
 祖父の名前は渡嘉敷三郎。「平和の礎」に関する県資料によると亡くなったのは「昭和20年10月13日」。亡くなった場所は「久志村久志」とあります。
 「私も祖父と一緒に逝くはずだったのかもしれません」と山城さんは語ります。