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子ども眺め「これが幸せ」 喜屋武貞子さん(6)母の戦争<読者と刻む沖縄戦>


子ども眺め「これが幸せ」 喜屋武貞子さん(6)母の戦争<読者と刻む沖縄戦> 現在の宜野座小学校。米軍の野戦病院が置かれた
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 久志村(現名護市)久志の山中で米軍に捕らわれた喜屋武貞子さん(84)=那覇市=や母の稲嶺千枝さんら家族、親戚はトラックに乗せられ、宜野座の収容地区に送られました。山中で生き延びた祖父の妹が栄養失調で亡くなりました。
 
 しばらくして米軍上陸時に越来村(現沖縄市)に残り、島尻の戦場をさまよった父の盛康さんが宜野座に迎えに来ました。その後、越来に戻ります。宮崎に疎開していた2人の姉も沖縄に戻ってきました。

 《地獄のような沖縄戦。残念ながらじいちゃん、ばあちゃんは栄養失調で亡くなってしまったが、わが家は幸運だった。
 父が激戦地をくぐり抜け、無事に家族と再会し、次女と三女は疎開先から帰り、久志の木の下で生まれた次男も丈夫に育った。戦後、三男、四男が生まれ、子どもたちは10人になった。
 
 山の中で空腹でいつも悲しいのに、泣く力さえなく、目とはらだけが大きく、骨と皮だけの痛々しい3歳の六女を、天は見放さなかった。》
 
 千枝さんは生前、子どもたちに戦争の話はしませんでした。80歳でこの世を去ります。
 
 《やさしい母は、山の中の戦争中のことはほとんど語らなかった。全員元気にそろった子どもたちをにこにこして眺めながら、「これが幸せというものだね」と言っていた母は80歳で生涯を終えた。きっと平和を心底願いながら…。》
 (喜屋武貞子さんの体験記は今回で終わります。次回から新里正子さんです)